もういいんでないか

諦めたり進んだり振り向いたりする雑記

さみしいを解体・わからんぜ恋しい


てめえ春の訪れとかそういうことしか書けねーのかよ!ってレベルであったかいとかなんとか、ダラッダラダラッダラ書き続けた約一ヶ月。
地味にウケ狙いしてたら「あれさ、わざとなの?病気なの?」と友人に言われ、すべてが流れ去っていった。サヨナラスプリング。

しかし、こっちもようやっと「春?んなもん飽きたっつーの、夏出せ夏」モードに切り替わってきて。
春眠暁を覚えずもこっちから忘れてやった頃で。

げんき?



とりあえず最近といえば異文化交流をしている。
台湾人の友人が二人でき、インチキチャイ語で時折応戦しては「うまい、うまい!」と言ってもらってる。

そんな彼女らの生活を見てると自分が海外移住を計画していた頃を鮮明に思い出す。
あれやこれやの情景というよりかは寂しさの匂いとか、胸の締め付けられ具合とか、そういう
変な、感覚的な部分が呼び起こされるようで。
時折フッと「海を渡ってまでセンチメンタルな日があったんだよなあ」とか。とかとかね。



やっぱり彼女らも時折「台湾に帰りたくなります、たまに」と言う。

「台湾に帰りたい!」と仕事終わりに泣きべそというよりかは笑いながら叫んで、どこかに飛ばしてる。
それは、痛み、みたいなものだと思うけれど、「ヨイショー!」と私はとなりで意味のわからない相槌をうっている。


けれど、わたしは「海外に生活をしに来ている外国人」を他人ごとのように目の前にして
帰って、それで、どうするんだ、と思う。
なにがどう、満たされるんだろう、と。



たしかに。
海外にいた時、帰りたい日は数えられないほどあった。帰って、何がしたかったか。
案外、はっきり覚えている。

「地元のCDショップにいきたい」
「吉野家の牛丼食べたい」
「お父さんが作る野菜炒めが食べたい」
「愛犬を撫でくりまわしたい」

口に出して言っていたのはこんなことだったと思う。欲望として、うまく言葉にできなかったものもあるけれど
母国にいれば、居さえすれば、すぐ叶うことを願っていた。むしろ、それ以外がわりと国に関係なく叶っていたのかもしれない。
ただ、「母国」というホームで無意識に抱いていた安心感を恋しくおもっていたのかもしれない。



「なんで台湾に帰りたい?」と聞くと、一人の子は「台湾のラーメン、すごく、食べたいです。日本のラーメン、ちょっと私たちにとって、濃いです」と言う。わかる。
好物を、食べたくなる。
今じゃ日本だってすこし出かければ台湾フードを目にするけれど、そうじゃない、母国だからこそ味わえるものがあって、それで育ってきた自分にまず価値があるのだ。

もう一人の子は「家族に会いたい」と言う。その子は、お母さんから頻繁にお菓子やインスタントフードが段ボールに詰められて送られてくる女の子だ。
食生活は日本と台湾を味わいながら、それ故か、どうなのか、どちらかというと彼女の方がホームシックにかかっていて

日本での生活を「夢の中にいるみたい。わたしは毎日、夢の中にいます。夢の中で働いて、本当に面白いです」と彼女は言う。

あ、それいいね!と、わたしは彼女の真似をして「明日も夢、あさっても夢」と仕事終わりに言う。
この表現に何故か母国にいて、母国で働いて、母国にて生活している自分は救われた。何度も。

嫌なことも、苦しいことも、特別言葉にするほどなく、エピソードとして一から十まで語るような愚痴もなく、話し相手を選んでる暇もさして無く(それより優先すべき有益な時間が多いのかもしれない)、「疲れた」と言うのもなんだか気がひけるような毎日で
無理に「大丈夫」と言うのも、なんだか喉が詰まる日。「頑張ろう!」と鼓舞しても、重たいままの腰を感じる日。

何度も「夢の中」という言葉に救われた。
さめたらどうにかなる、なんて先のことまで考えない。いつかはさめる夢、という意味でもない。
「夢」というどこか非現実な表現に詰まったものに、フゥッと肩の荷が下りて、「夢の中ならいいや」と眠れる。



海外にいた時の自分にもパズルのピースかと言わんばかり、その表現はハマった。
どこか、すぐ忘れてしまいそうな毎日で。
景色も匂いも、目に焼き付いたり鼻にこびりついたりせず、いつかはスルスルと手放していく夢だと、思っていた。

実際、思い出せれることは少ない。あんなに楽しくって、あんなに苦しんで、あんなに泣いて、あんなに笑ってたのに!とまでは行かないけれど、少し悔しいくらいには思い出せれない。
「思い出せれない」という感覚があるくらい、覚えてるはずのものが。
(きっとその中の、感覚的な部分を最近は思い出させてもらってる)



不思議だなあと、おもう。
台湾の女の子、ふたり。一緒に過ごして、一緒に働いて、母国が違うだけの女の子。
顔に出るってすごいな、おもしろいな、って言葉以上の「通じる」を感じたり
こんなこと思うかな、なに考えてんのかな、って予想してはお互い選んでみる「言葉」とか。


彼女らと同じ「母国を出て…」ではないけれど、実家を出て

「故郷に帰りたくなる?」と上司に聞かれては「そうでもないです」と答えて。
今さら、いま恋しくなるなら、どこだろう。どんな、ものや、ひとに会いたくなるんだろう。

考える。考えている。




あ、そうだ。

先日二連休をもらった喜びのあまり父親にメールして、久しぶりにきた父親からの言葉。
「楽しい連休になると。良いね」
句読点からはみ出した言葉にちょっと笑った。





ちょっとだけ追記

ハンバートハンバートの「邂逅」を清々しい天気の日に聴く。
ゆっくりとした日本語が心地よくて、景色が広いと歌いたくなるから、よく、海外にいたとき(なにもない田舎だった)歌っていた。公園のビックリするくらいおっきな木の下、ギターは下手くそだけど、よく弾きながら歌った。
その中の詞に「そろそろ、わかってもらえるはずだね。僕らは、同じさ。僕はね、君だよ」という部分がある。切ない歌詞だけれど、心が温められる歌なので「寂しい」という言葉を見るとこの歌を思い出す。


めくるめくスプリング


3日おきに休みをもらうという日々の中、「それって週休1日ってこと?」と言われハッとした今日。一週間を7日間と考え始めたのってなんでだっけ。

おはよう!元気?

唐突に雨雲を吹き飛ばすような春の陽気。
すこしばかりムシムシとした神奈川からハロー。
相変わらず時間がないと言いつつ遊ぶ暇だけはあって、ダーツからはじまりビリヤード、食べ歩きツアー、和菓子ツアーを行っとります。

そこらへんの商店街でパンやら饅頭やらをモサモサと食べ歩いて、夜は夜でハイボール片手に散歩してはんぺんを買って。
眠る時間は遊ぶ時間に。

今まで、蝶よ花よとかわいがって守り通してきた6時間睡眠を忘れ、人生で一番、そして初めて「わたしには睡眠なんていらんのね!」と思う毎日です。

この、夏休みは終わるまでが夏休みで、宿題なんぞは失念に失念を重ねてきたような、めくるめく怠惰ライフをおくる(現在進行形)わたしをそうさせるのはなんぞや、と考え始めればそれはそれでおもしろいのだけど
スパーンとはっきりくっきりわかるのは「仕事が楽しくて好きなものであれば、精神的疲労に費やされるエネルギーの充電を考えなくてよい!」なのだった。

今までの眠る前といえば、明日はアレしてコレしてソレがあるからその分のエネルギーを考えて何時には寝てうんたらかんたらアブラカタブラ、果てしないプランニングをしながらの不意打ちコテン!ってなもんだったのです。
それが今では、明日の業務内容なんてろくに考えずに、むしろ顔なじみのお客がなんの・どんな話を聞かせてくれるかなムフフンにてコテン!なわけで。

仕事をエンジョイするのはいつぶりだろう!と忙しさの中で確かな満足感に包まれとります。

嫌なこともあれば、悲しいことも、失敗もあるし
疲労なんか見て見ぬふりもできないくらい身体に支障をきたすのだけども(足首の可動範囲が狭くなったオドロキ!時間かけてストレッチしないとそろそろやべいとみた)



なあんか、ずっと、「夢の中にいるみたいだね」と。同期と話しながら。


なにがそんなに私たちを穏やかにさせているのだろうと考え

仕事が、遊びが、楽しいとか充実感を得ているという実感とはまた別のどこかで、フワフワした微笑み菩薩ゴゴロがボケーっと浮上。

もしや、これが、春!




エイトごとでは、イベントと言えば良いのかツアーと言えば良いのか…
まだまだ把握しきれていない地方でのリサイタル開催が発表され、新番組もそろそろはじまりそうな気配をどことなく!そこはかとなく!感じながら(スタートの日にちを失念)
今週の日曜日のトーキョーライブは安田くんの担当ということだけは頭の中心で華麗なるステップを踏む勢いで踊っとるんでした。

楽しみ!ああ〜、楽しみ!
趣味が、趣味から迫り来るような大胆さで「楽しさ」をアピールしてきて、どうせなら今年のフジロック行きていなー!なんてふしだらに貪欲に叫ぶのです。
すべてを平らげたいサマー・カミングの、予感。

ビーオッケー




疲れるってこういうことか!とザブーン。
なみなみに入った湯船に飛び込んでグデンと天井を見上げたくなる今日。
元気?

4時間寝て5時間仕事して、4時間寝て6時間仕事しての繰り返しで
1日の境目どころか朝と夜もよくわからず、最近はその言葉のままに忙殺されている。
これぞ充実感!と言いたいところだけど、そこまでの精神力はもはや無く、削られていく自分の時間にふと立ち止まる思いなのだった!
そうして、そろそろ泣くで〜と意気込んだからこそなんとなく、正気を保つようブログを書くことにしたわけだけども、


世の中がんばっている人の方が多いのだろうなと最近はぼんやり考えとります。

職場にも、ハードスケジュールな人がいて、上には上がいると、まわりも口を揃えて言う状況があって


「疲れた〜」なんてツの字をうっかりこぼしてしまうのも、なんとなーく許されなさそうな、そんな「いや、まじ、全員疲れてっから!」な空気に

「自分だけががんばってるわけじゃない」というのは今まで、仕事するにあたっても、生活していく上でも、気をつけていたことではあるけれど

「労わることができるのは自分だけかもしれない」。
そう思うことも大事なのかも、と思った最近です。


毎日ではないけれど、ふとしたことを伝えようと連絡をすれば、それが仕事終わりの夜遅くだからか、「おつかれさま!」と声をかけてくれる友達がいて
何気ない日常の一コマで「疲れてるね」と笑いかけてくれる友達がいて
お互い様どころかその度合いを数値化したらばどうなるかもわからない「疲労感」の世界で、心を穏やかにしてくれる言葉や態度が世の中にはあって

落ち着いて、波もなく、そういう「労わることのできる」立場で在らなければと。心を正される思い、ふつふつ。


まだまだ頑張れる、やれる。
口にすると「大丈夫だ」と思えれる言葉。

しんどい時こそ「しんどい思い」を言語化せずに楽しいことを考えようと、思い出すように頭をよぎっていくのだから、
何よりも「実行」に重きをおいとりたいね、そんな春の陽気に包まれる4月の中旬。


趣味ゴトがすべて一時停止モードにて、来たる休日に爆発の予感。

すべて何かの過程のなかで


桜を見て、長い冬を生き抜いてきたわとグングン、伸びをして思ってしまう春、毎年恒例の解放感。
元気にしてますか。

こっちは、お家でてんとう虫を見つけて、やるかやらぬか、ティッシュペーパー片手にウンウン考えて、
てんとう虫って悪いことしないよねという浅はかなてんとう虫知識でもって、
良いさ、我が家にいれば!と面倒くさがり大発揮の末、招いたのであった。
どうなるどうなる。



最近といえば引越しを終えて数日が経ち、あれよあれよという間に時間が流れて日が過ぎて月を跨ごうとして。

短い時間の中で、ふとしたときに色々考えとります。

あまりの連絡不精のせいか「元気にしてるのか?」からはじまり「生きてる?」や「そっちどうなの?」など。
海外移住計画中のときよりも心配の声をかけてもらって、感激。
なぜに国内のいま!と少しだけ驚きもありつつ、それだけ新たな出会いを築けていたのかなと喜びひとしお。


そんな中でも「何をそんな、オオゴトな!」と読み始めながらも、タイヘン恐れ入ったのは父親からのメールだった。


立て続けに6通。

貧乏アナログ極めたおじさんなわけだから、文字が不自然に途切れつつも、尋常ではない前途を危ぶむ内容が謝罪と共にやってきたのだけども

その内容といえば
元気?と問いかけ、ちゃんと「生活」が成り立っているのか、それから仕事はうまくやれているのか、職場の人間関係では無事に過ごしているのか。


これが、人生の6割を無言で過ごしてきたんじゃないかと思うほど寡黙で穏やかな父親からのメールとは
まったく送信中の顔も気分も想像のつかぬモノだったのである。


そんな父親とわたしの関係性について、
話し始めればさっくり終わるようで、しかしどっか面倒で、けっして複雑ではないけれど「微妙」であることは否めないもので
今まで、お互いがお互いの人生に関する発言は控えてきたのが事実だった。
学生時代も会話は少なく、社会人になってからも仕事について話をしたことがなかった。

「選択権は自分にあるのだから」を暗黙の了解に、わたしは家庭環境について「自由に、のびのびとさせてもらえた」とおもってきた。
自分にとってのベストな環境であって、今後だってそう思って過ごすのだけど。


最後の一通に、「いつでも帰ってきてください。甘いことを言うようですが、頑張りすぎないように」という内容と、「昔から頑張らせてばかりでごめんなさい」があった。

わたしが今まで父親の娘として過ごし、さまざまな選択だって自分の好きなようにして、ときに馬鹿馬鹿しいこともやってきたなかで、はじめて言われた言葉だった。


今までの行いが誰でもない父親に頑張りとして認めてもらっていたこと、本人が私との関係性を気にしていたことについて初めて口にしたこと、結果的に謝らせてしまったこと
あまりに、受け止めきれない怒涛の父親からのメールに最早なんて返せば最善かもわからず、「元気にやってます」とだけ一通。

どうしたものか。
毎日、なんとメールをすればよいものか、考えに考えとります。


なんだって好きで自分のためにやってきたから、大丈夫。と声を大にして、いつか伝えられるのか。
父親に対して「誤った選択をした人」なんておもったことがなく、わたしの人生にどんな影響があろうとも恨んだことだってない人に、まさか謝らせてしまう日がくるとは。



ワアワアと胸の中で何かが騒ぎ始めて、溢れ出しそうな溢れ出してしまいたいようなとどめておきたいような、止まらない毎日。
もう少しだけ待ってて、父。と思いながらモロモロ踏ん張りどきなんだなとハッとするのはいつもこうなってからで、
きっとまだまだ、まだまだやれる。何かの過程にて。


ゴロンと転がってハロー


「今が幸せすぎて、いかんのよ!わたし、だめだ!不幸になりたい!」



突然あったかくなって、すっかりふんわり春がやってきたような気温。
元気ですか。
体調を崩して、あれやこれや選択をして精算をしたり、新しいカードをひいては迷っての1ヶ月、のほほんと過ごしていたら1日24時間なんてすぐに忘れて、明るくなったり暗くなったりする事情だけで1日の境目なんてようそんなこと思いつきましたな!とか考え始めて、いかんこと極まりない。
馬鹿、それくらいにしとけ。



4月といえば「出会いと別れ」で、それに伴って始まる、新生活。

知り合いも周りに構うことなく蚊か、ハエか、大きいような小さいような音を立てて
人知れず引越し準備やらを進めては、行けるもんから目的地に行っとって。

「あんたどこ行くん」「福岡」「ほーん」
「あんたはどこ」「研修で広島行く〜」「ほーん」
「あれどっか行っちゃうの」「上京!東京で待っとるね!」

そんな感じのことばかり。
どっか行くの好きね!って思いながらわたしもどっか行く。
時期的な問題だけども類は友を呼ぶ。
「どっか行くったら行く」と家出少女さながら勝手に決めてスーツケースに適当なものを日々詰めてる。
いや、出かけるも引きこもるも勝手に決めるものだ。

計画性は、みなまで言うなレベルでもうビッシバッシ、ネットだろうとお構いなしで晒してるとは思うけれど、昔っからない。
Tポイントとかの方が多そうだ。
それくらい無い。
絶望的にないから電車の時刻表の見方もスマホが出る前なんかはあんましわからんかった。
これは計画性というか「お前は部位でいうと頭がすこぶる悪い」の典型的な事例である。

「はぁ?結局何時に来んのこれ。のぼりってなに?」
「電光掲示板見たらわかるでしょ、ほらー」
「電光掲示板?は?それてどこ?」

運が良かったものでまわりがものすごく底無しに優しかった。
「世間知らず!」と罵られてけちょんけちょんにされることもあったけど、それってもう「これは奥歯ガタガタ言わされてんのかギャフンと言わされてんのかどっちだろうな」ってかんじのいきおいで、
尚且つ口答えできないくらいごもっともだったので感謝の念をちょびっとだけ地元のツレに送る。ごめん、まだ頭の方治ってないです。

しかし、それでどうにかなってきちゃったから、ツメは甘くなるばかり。
救いようがないなコイツ、と口を閉ざす友人も少なくはなく、大概のことがググレカスでまわるようになった。便利な世の中だわ!




きもち、うたた寝。

そんな時、ふと思い出した1人の友人。

生きる上に無駄なこだわりが無くて、柔軟性に満ちて明るく、朗らかな彼女は万年平和ボケという言葉が似合うキャラクターをしながらも、

「あんたと出会って、毎日たのしい!そんなね、幸せだからいかんのよ!なんかもう、毎日こわいの」

そう言って、わたしここを離れるわ!と出かけて行った。
あっさりとしていて、一週間。
本当にたった七日間でさまざまなものを手配して飛行機に乗って、彼女はわたしの見知らぬ土地へとむかった。
今現在一年間再会はできずにおり、わたしも彼女も「転落願」をして2回ほど住む地を転々とし、今はお互い日本にいるが会えていない。
連絡はとっている。


「転落願」というのは文字通り、しあわせという山登りから雪崩にあって転がり落ちるようなことで、
しあわせすぎると途端次にいやなことが起きるのでは!というメンドーな勘が働き、だったらこっちから「いやなこと」に会いに行ってやる!そういうものだ。

ドラクエでいうと、「このまま進めばボスに会えるけど、ちょっと一回帰ってもっかい一から遺跡まわって、さらにレベルアップしとこうかの」みたいな感じだ。


彼女は文頭のことばを不意に私に向かって伝えて、消えた。

わたしもその数日後、友人がひとり離れたことも忘れるほど「毎日たのしい!」を味わったのだが、強烈にその「転落願」が頭に残っており
今もまだなお、呪いバリの粘着性でこびりついている。
しあわせを感じると頭の中で彼女が言う。
「不幸になりたい!」「毎日こわいの」
彼女のきもちは痛いほどわかる。

わたしも、医療事務をし、カルテを作り、町の片隅で患者さんと日々語らい、おすすめの小説でしっぶい本をいただいて、感想を伝えるのに仕事の休憩中に読んだり、先生に「人体とは」を問い詰めて困らせたり、「このまま問題なくほのぼの生きれるんだろうな」と思えれる生活があって、
それでもまとまっていくお金をぼんやり見るたびに、「わたしはこのお金をいつ何のために使う気なんだろう」という妙な胸騒ぎがして、目的のない貯金にある日、冷めた。

たぶん、恐らく、言い切る人は言う。
「明日死ぬかもしれないのだから」
それもまあその通りだけども、それにしたって今日だけで片付かないこともありますし…ってな感じでわたしはあまりこの言葉を使う勇気はない。
今後も湧く気がしない。
しかし、「目的のない貯金」をして2年も5年も10年先もこのまま普通に生きてると平気で思ってる自分に「あれ?」と思った。
なにその無駄にある自信。

結婚式だってお金かかりますでしょう、親だっていつ倒れるかわからないでしょう。
そう、家系を、己の歩いてきたボンビー道を反面教師にし、いつかのための貯金と思って、毎月何気なく節約して何気なく貯めていたお金。
そいつらが「オイオイ、ボンビーガールここらでいっちょ使っちまおうぜ」と語りかけてるようだった。
結婚なんてまず相手がいないし、親もピンピンしとらっせ、と。

そうして、そうだ!一人暮らし(渡航)しよう!痛い目にあおう!に至るのだが、それはまたいつか詳しく触れなさそうでちゃっかり触れそうなので割愛。


言うまでもなく貧乏の子は貧乏だ。
なかなか血に抗えない。
生まれながらの貧乏センス、狂いなし。
指針がまず貧乏。
親が貯めなければ子も貯めない。
金は使うんだ精神で散財、アホか。
RPGちゃうねん、モンスター倒してガッポリちゃうぞ、コラ、人ん家の壺わってコイン出てこんのじゃアホ、馬のフン出てくんぞ。

そんな逡巡も時にあったが、お得意の「いやまず行動すっか」で、わたしはまたひとつふたつ、計画性を手放すのだった。

話は大きく逸れたのだが、このまま平穏無事なんだろうなと思うと破壊衝動を抱いて動かずにはいられなくなる、「こんな幸せを感じで、痛みという学びはいつ得るつもりなんだろう」そんなことを考える。
友人の気持ちがじゅうぶんにわかるな、とわたしは身に覚えを感じていたのだ。だからこそ脳みそにガンコな油汚…彼女の言葉が刻まれていた。

それらをぼんやり思い出したコタツの中で、つまりわざわざ当たり前をやめるんだよな、とケンタッキーフライドポテトをモグモグ食べていた今日。


もはや、これは「転落癖」。
癖になっている。
自分がルーチンワークを惰性にして、考えることをやめて1日、1日すぎている事にふと気づくと、なんらかの変化を強く求める癖。
もうちょっと痛い目にあって体当たりの人生おくったほうがいいんじゃないか?という不安。そうして、必殺技「わたしの人生ですから!」を発動してズンズン周りを見ずに進む。

大きかったり、小さかったり、その変化はこれまでさまざまだったが
今回も「どっか行こう」から始まり「何か初めてのことやろう」に続いている。

わたしはいつか「やりきったわ。満足。もういいわ、そろそろ腰休めるか」とか言うのだろうか。
たとえば、世界中旅したいなんて、正直口が裂けてもパンツが裂けても言えないくらいインドア派だ。
旅行欲もあり、実際に動くこともあるけれど、一人の時間ないと死ぬんで!とばかりに週に一度は引きこもらないとバランスが取れない。
明確な目標も目的もないからこそ、自分がどこかに落ち着いて日々を生きて、住居も安定して……、そんな未来がひとつも理想的として浮かばないことにすこしだけ「それもそれでめんどいな」と思いながら。
誰かわたしを縛っておいてくれないだろうか。
そうして考えついたのが「ルームシェア」だったんだけども、それはそれでまた実現したら詳しく書こうと思う。



今日も今日とて、スーツケースにあれこれ詰める。
これは持っていかんくてもいいなと思うもんて、もはやなんで家にあるんだろうね。
気持ちいいくらいバコンバコンごみ箱にモノを捨ててスッキリしている。たいしてそれだって量という量はないから、ゴミ袋ひとつも満たされないのだけども
生活するにあたって必ず必要なものってこんな少ないんだな、なんてことを思い知る。
こんなこと、とっくの昔にいろんな人が経験済みで、わたしももしかしたら、何度目かの「はじめて思い知ったわ感」を抱いているのかもしれないけれど
まったくもって情緒もへったくれもない少量の必需品を抱えてこれからも生活していくのだわ。


担降りはむずかしい〜人の形した光編〜


最近ジャニオタ界隈で「担降り」「担降り」って、みんながワッショイしてる。
その勢いはコイケヤのドンタコスCMを彷彿させるレベルで、もう「担降りったら担降り」「担降りったら担降り」ってあの絶妙なステップで前進してるのよね、確実に。
でもそれがわたしには唐突な出来事すぎて
なんだー、っつって。
なんの騒ぎだー、っつって。
窓開けて見てみたんだけどコトの発端がいまいちわからんかったので、とりあえず「出会いと別れの季節なんだな」と思うことにしたわけです。


三寒四温という言葉も出たなか、今日はあったかくなるらしいね。元気ですか?
さむくね?これ本当にあったかくなるのかな。

でももうすぐ4月なんだね…



そう思うと不意に思い出すことがあって、2009年4月15日、関ジャニ∞は3rdアルバム『PUZZLE』を発売したのであった!


唐突な本題突入



これからツイッターのフォロワーさんに「担降りブログが流行ってるからわたしも書いてみよ(したことないくせに)」とヌルい気持ちで言ったことを実現するために思い出を書きます。



2007年頃。わたしは斉藤和義がだいすきだった。

学生時代、知ってる邦楽はスピッツ、PUFFYにゆず。毎日ハイハイパフィあみゆみショーだ。
腹の中にいるうちからABBAにThe Beatlesという洋楽英才教育を受け、中学生になるまでミュージックステーションて、うたばんてなんやねんと言っていたわたしに、邦楽の良さを教えてくれたのは当時話題も話題、カラオケのテッパンよ!な人たちだった。
L'Arc-en-Cielも聴いたし、モー娘。も聴いた。クラスメートとカラオケに行くと日本の未来はウォウウォウウォウウォウしていた。
恋をしようじゃないかと歌っておいてモテなかった。こと恋愛に関してはろくなことがなかった。
時が経てばみんな色んな音楽を好きになって、それまでお家で親と聴いていた曲ではなくお小遣いで買ったCDや、部屋で聴いていたラジオから情報を取り入れて、やれわたしはaikoみたいになる!やれ宇多田ヒカルみたいになる!大塚愛ちゃんみたいになる!BoAになる!

なれるもんならなってみろバカ!
そうして女子たちは散らばっていった。

わたしは間も無く斉藤和義を好きになった。

ただ永遠とつけられていたスカパーのチャンネルが、洋楽TOP50もやれば、邦楽TOP100などもやっており
わたしはラジオのようにつけっぱなしにして、クーラーつけたあかんで扇風機にしてね!あずきバー冷蔵庫にあるから。って共働きの両親もバイトやら大学やらで忙しい姉たちもいない家で、一家に一台のテレビを見ていた。

かったいあずきバーをガシガシ食べて、あっつい部屋。半袖半パン。
たいして新しくもないマンションの6階。お昼ご飯は鍋で作るインスタントラーメン。
暗黙の了解かなんかかよってくらい家で聴く事のなかった邦楽。親に秘密で見る邦楽TOP100という謎の背徳感。(邦楽にとても失礼である)



家族がいたら絶対に見ることのなかった邦楽MV
TOP100に斉藤和義はいた。


かっこよかった。みなまで言うなレベルでかっこよかった。もはや「か」と言ったら斉藤和義だった。

それから少しして「やぁ 無情」が流行った。

その頃のわたしはそれなりの余裕でCDを買うお金を持っていた。
気づけば過去に発売されていたアルバムを手にしていた。好きな曲が増えていく感覚と、親にも教えていない自分の趣味が盛り上がっていく楽しさは、平凡なわたしを十分にたのしくさせた。


それからまた少しして斉藤和義は楽曲提供を行った。
それが『パズル』。

斉藤和義という日本一かっこいいと思うにふさわしかったおっさ…おにいさん(くるしい)を、当時から隠しきれていなかったおじ専アンテナで日々愛し、「ヒゲを生やして〜」「別に髪型なんかなんだっていいから黒髪で〜」と理想の男性像を着々と作り上げていたわたしの生活に、突然やってきたアイドル!!ジャニーズ!!関ジャニ∞!!!






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4月、出会いと別れの季節。
楽しかった、修学旅行。
京都のお土産屋で先生が何気なく放った、「八つ橋なあ、あんま好きじゃないのよな」。



(話に戻る)



はじめまして、関ジャニ∞




アルバムが発売されることはわりかし早めから発表されていて、わたしが知ったのは4月上旬だった。

それからなんともいえぬドキドキ週間を過ごし、4月16日の夜、はじめてレコメンを聴いた。パズル、かかるかなって。

12時からの全国ゾーンでは短いながらも斉藤和義の楽曲提供について語られていたのだが、
はじめて聴くレコメン、はじめて聴く関ジャニ∞のトークとだけあって、てんやわんや。耳で渋滞がおきる。
そんな、右から左、左から右へと卓球のようにカコンカコンと軽快に進むトークは声の聞き分けもままならないわたしにはついていけず
「錦戸亮くんが斉藤和義のことだいすきなんだ!丸山くんと大倉くんが、一緒にご飯食べたんだ!」ということと、横山さんが413manに込めた思いを最後に聴いて知った。

PUZZLEや413manに限らず、やはりこれはアルバムを買ってみようと、あざできるくらい大きく膝を手で叩いて、話はそれからだと、思わざるを得ないレコメンだった。

そのときのレコメンは丸山くんと大倉くんがゲストに来ていて、他のメンバーに色々電話をしていく…という内容だったらしく(あとから確認してどうにかこうにか録音やレポートしたものを探したのも良い思い出。アイドルには幅広い世代の需要がある、これってすごいなと思っていました。検索したら情報がたんまりある。色んなオタクが色んなサイトでブログを書いてる)。
その日のわたしはたまたま錦戸くんとの電話を聴けていた、のである。



そうして手に取ったアルバム、『PUZZLE』。
それまで、関ジャニ∞といえばなにやらドラゴンが舞い降りたりドラゴンが踊りだしたりしてた人達という印象が私の中では強く、またそのMVもスカパーの音楽ヒットチャートにて何度か見ており鮮明に覚えていた。

賑やかで、関西弁で、その当時よく話題になっていたKAT-TUNのような研ぎ澄まされたクールさとはまた別の、どっからどう見ても親近感わくお兄ちゃん達でしょう?感。


そう、そういえば。思い出した。

CDを買うとき、普段輸入盤1択で洋楽CDを買っていたものだから邦楽って難しい!と嘆いていた。

「なになに初回限定版?通常盤?は?え?アルバムってこんなにお金すんの?え??」

こうやって学んでいくんだと、CDショップの店員さんにあれこれ聞いた思い出。

「この商品はどういう意図ですか?」なんて、今思えば店員さんからしたら「知らんがな」だ。

とりあえずスペシャルな感じという印象のDVD付きを購入していたのだが、そのときのわたしを褒めてあげたい。ボンビーのくせに鼻がきく!


でもその時の初回限定版て、とにかくいかつかった。
いかついってーか、ゴツい。
デカい。

「え?ジャニーズって、ダンボールなん?」
洋楽カルチャーから(間にJ-POPあり)ジャニーズカルチャーって、ギャップがありすぎた。
今はなんとなく買い分けなるものがしっかりとした判断のもとできているのだが、とにかく少し見る棚を変えるだけでジャニーズゾーンだけはビビるものがあるのだった。


そんなこんなあり、手に入れた初回限定版だったのだが

これがまあ〜〜〜



開けない。



手に入れた途端満足感に満たされて、ボンビーのくせにその先をなかなか進まない。
しばいてほしい。
お前金払ったんだろっつって。
募金してきたんじゃないだろって。
それくらい開けなかった。
別に、開けても人食いバコじゃないのに。
開けろよ。てーか、開けろよ。

それくらい間が空いて「そういや、わたし関ジャニ∞のアルバム買ったわ」くらいののんびりさで開封。バーカ!
ゴールデンウィークの連休中だった。


わたしが、斉藤和義から安田章大に「担降り」いや、「進路変更」を行ったのはその日だ。
(進路変更の合図は3秒前!majiでkoiするのは5秒前!惜しい!)

人生初めてのジャニーズDVD鑑賞。
おまえ初めてAV見る男子中学生かよ!!!
くらいの厳重な警戒態勢を保ち、つけたDVD。
洋楽家庭からしたらまず邦楽が家に流れることが禁忌扱い。タブー。
邦楽TOP100だってソワソワと眺めていたのに、今度はDVD。
ジャニーズアイドルの、DVD。
おまえ、あんなに!バックストリートボーイズ好きだったくせに!(※今も好きだよ)



そのDVDで安田くんはギターで作曲していた。(あ、わたし安田くんのファンです。はじめまして)


kicyuは、まだ私の中で関ジャニ∞ベスト曲枠からはずれていない。

楽曲そのもののレベルがズバ抜けており、その当時からもう5年以上もの時間が流れているが音の劣化がまるでない。
きらめくポップセンスが発揮されており、歌詞も巧妙な「かわいげ」が散りばめられて、メロディー無しでは恥ずかしくもなりそうな言葉の並列。
kicyuのなにがどう素敵かどうか、それだけでひとつ記事が書けるほどにコダワリか、はたまた天才の天然かわからないさまざまなトラップがある。
(しかし、これは色々見れた今だから言えるが同時期にdesireがあるのだから安田章大にとってあの頃は「くどく明快さの欠いたポップ」から「よりキャッチーで飽きのこないポップ」というネクストステージへ、のような印象がある)

とかなんとか言ってたら以前ツイッターで語っていた内容がでてきたので並べました。


「まさかの間接キスなの?で、伸ばしてサビに繋げるその変則的な発想はきっと関ジャニ∞にとってとても大事なところだと思う。
緻密に計算して考えれる作曲者だからできることであって、あれが感覚的ならば神様に恵まれてるんだ…と思う。
(割愛)
間接キスなの?で捕まえた客をこっちだよ〜、とサビへと案内してくれる「君も僕も」はより一層あの曲から受ける「POPぽさ」を引き立てたと思います。
(くどいから割愛)
容赦無く繰り返してもう、絶対逃がさない上に引きずりこんでくるスリル満点の強引さを全面に押し出した高音且つ16分音符の高速には本当にびっくりした。kicyuにはジェットコースターばりの緩急があって、ありとあらゆるものがお互いに引き立てている。」


(我ながらなんかくどいなこいつ…)



メンバーがどんな人でどういうポジションなのか、わかりもしない当時、
おそらく、七人の声がグワッとしている曲よりもkicyuが聴きやすかった。
というのも、もちろんどこかにあるとは思うけれども
これを、ディスコっぽくと言いながらもアコギで作曲した関ジャニ∞の安田章大、をわたしは好きになった。
(メーキングのボサボサな髪もすきだった)



この、当初の行動理由であったはずの『パズル』の失念感!!!!
いっそ潔いほどに馬鹿丸出し!!!


パズルもすきだ。
七人の声がグワッとしてるのが〜と書いたけれど、そういう意味でもパズルは聴きやすくて、歌詞も「あらいざらい話して〜」と語っていただけあり関ジャニ∞を知るにはとてもいい曲だった。
いや、『PUZZLE』というアルバムが初心者教材のように、わかりやすく教えてくれた。ユニットもソロも聴けたのだから。


そうして、わたしは2009年5月。
斉藤和義を知り、そして斉藤和義のおかげで唐突に遭遇した「関ジャニ∞」という7人組に進路変更を行ったのであった。

「担降り」というのはジャニーズカルチャー内にのみ、通じるものだと思う。
この記事を書くことで「なにこのアッサリ」感をぬぐいきれなかったのだが、他と通じさせようという気はない。

他のブログで拝見した恋する乙女のような繊細な感情は進路変更する上でわたしはクソかってほどに全くなく、
まるでそうすることが自然かのように関ジャニ∞を好きになった。
関ジャニ∞を応援しながら斉藤和義も、応援できた(現在進行形)。余裕だ。自転車乗るの苦手だけどこれだけはできる。それくらい余裕だ。

ジャニーズカルチャーには独特の「担当」に対する思いがファン各々にあり、それはひとくちに疑似恋愛とか母性とか、そういう言葉では表現できず、一つの曲を愛でるように思い出だってどんどん積み重なるものなのだから、
そんな「思い出の塊」を手放したり、どうこうしたり、というのは尋常ではない気持ちの整理が要される、それは必然なんだ、と知らない者ながらにおもう。

今回、「担降り記事」が一部界隈かもしれないが広くジャニオタたちの中で流行った(ように見えた)ので、
あのときのわたしはどんなだったか。そんな思いで2009年、好きになった瞬間、をまとめた。
これはおそらく「担降り記事」ではなく「幕開け記事」だ。

タイトルでピンときた人もいるとおもう。

今日もどこかで光ってる 誰の目にも触れない場所で」
誰の目にも触れてないことは絶対にないのだけども、好きなタレントを、歌手を、アーティストを見つけたこと。
これからも大切にしていきたい。
そんな気持ちでMr.Childrenの「箒星」から抜粋しました。

わたしはまだ「担降り」をしたことがない。

おそらく関ジャニ∞でまだまだ手一杯な今グループ内で担降りしないかぎり(安田章大の才能発展をうかうか見逃すわけにはいかないのできっとそれもあり得ない)、もしかしたらずっと分かり得ない「複雑な思い」だ。

けれども、今回いろんな思いがある事をいろんな人の言葉と感覚で語られて歴史が事細かに記されて…、
すこしその経験を「うらやましい」とおもった。



「そっちどう?」


なんでもいいから働かせてくれって時期があった。みたいなことを以前書いたのだけども、その同時期にあったイロイロが変な出来事ばかりで、まさに生きるのは辛かったけど、生きたいから職を、金を探していたなとおもう。

自分でも思い返すと「人間ってこういうレベルよね」みたいな納得があるのだ。
よくわからんが、もし1つの転機によって人生で一番ラッキーなことが明日、あさって起きるとしたらば、ちょいと今日死ぬのはもったいないかも的な。なんかもろもろが捨て切れなかった。じゃあ動いてみっか、みたいな。
不信になるにはまだまだ有り余ってそうな、自分の「運」を感じていたのである。たぶんこういうのを、能天気っていわれるんだけども。

そんなわけで先日ふとそのときのイロイロを思い出したもんだから当時出会った友達と、ああ、そんなこともありましたわな、とケラケラ電話をしていた。




わたしの人生、生まれてこのかた超ビンボーで。どれくらいのレベルや、どやどや、とこられると、金持ちの背比べは華やかとしてビンボーの金ない自慢てそんなおもしろくはないので省略する。
とにかく、まわりと比較する余裕はなく、なんというか口にこそみんな出さんかったけど「あ、うちってビンボーなんだろうな」そんな気は小学生からしていた。
その上両親は絶妙な放任主義で、わたしもその放任のもとすくすくと、それはそれは昔からのびのびと自由に育った。
子どものもつ金には限界があるし(我が家にはお小遣いはなく親戚からもらったお年玉を一年間サイフとにらめっこして崩していく制度だった)、自転車は一台しか我が家になくて、それはもう、かろうじて動きまっせなママチャリだったから余裕で足なんて地面に届かず、しぶしぶ歩いて近くの公園にいって、ドングリだか知らん木の実をみつけてはパンツ濡れようが構わん!おなかすいた!ってないきおいで、川のなか座り込んで、じゃぶじゃぶ木の実を洗って食べる田舎っ子だった。


そんな田舎っ子が海外留学決め込んで、ぷいーんと海を渡ったのだけども、わたしのそのときの持ち金って「40万」。
航空券とっとったら10万消えたのでもともとは50あったんよ、と周りに言うと「おまえは部位でいうと頭がすこぶる悪い」みたいなことをやーやー言われたので割愛。

しかし40万もやはり、なめとんのかおまえは。っていろんな人に言われた。
それでもわたし、一回は一人暮らしがしてみたかった。
「そんなもん、国内ですりゃよかろうも」みたいなツッコミもビシバシいただいたが、「は? それじゃわたしいつみんなに金くれ言うかわからんよ 知らんでな え? それでいいか? え?だめだろ?どうせ自分がかわいいんだろ? 」そんなこんな超絶かわいげのない言葉を吐き捨てわたしは飛び立った。


とりあえずわかったのはビンボーは家族から離れて住む国を変えてもビンボーだった。

まず物価が高い。住むところだって月に約6万の家賃を払っていた。それしかなかった。そんなこんなしてたらすぐに金が尽きて、家賃払えないご飯たべれないで、わたしはホテルの前で頭を下げた。
「おねがい、ここで住み込みで働かせて!」


人生なるようになるもので、朝早くからベッドメイキングして、どすっぴんの幽霊みたいなボサボサ頭の女が「チェックアウトの時間でっせ」って、これまたどすっぴんの幽霊みたいなボサボサブロンドヘアの客を起こす。そんな生活が続いた。
ホテルはいわゆるバックパッカーというもので、辛うじて制服はあったけど虫食いでボロボロのポロシャツで、ぶっちゃけどのシーツも、めちゃくちゃに洗っても洗っても加齢臭とかワキガとかするようなオンボロもん。
息も絶え絶えこの宿にたどりつきましたってかんじの超ガリガリガリク…痩せ型の男性は寝ゲロをかましてくれちゃうし、
ベランダなるものはないから看板がある屋根に裸足でよじ登って、布団を干して、
ハエだらけの倉庫でシーツをああだこうだ言いながら畳む。そんな生活。
人生で一番「おまえ、きったないのう!」とまわりに言われた生活だった。悔しくて、このヤロウとは思ってたんだけど、あのとき「周りがなんと言おうと、わたしの人生!」という意見が生まれ、確立しつつあった。

でもどんな土地でどんな環境であれ、住めば都で、最初はベッドにはいっては「かゆい!なんかかゆいんだけど!」と泣き喚いていたが、だんだん免疫なるものが高まるのか「は?ワキガ?しませんけど?? は?虫?いませんけど??」。とにかく身体が丈夫になった。


そんなわたしが暮らす部屋は8人ものスタッフが「シングルベッドだけがお前のプライベートスペースな」、ってな感じの狭い部屋を共有していたのだけども(自分の荷物はベッドの下にしまって、置く場所もないから化粧道具や服などはベッドの半分に。寝返りも打てないスペースで全員がピーンと寝ていた)
全員がドビンボーな女、だったのでそれが当たり前みたいな錯覚を起こしてしまい、色んなことをやった。

コロンビアからきたビンボー美女は、入居して1週間目で朝食がニンジンにかわった。朝、よっこいしょと目覚めてチェックアウトしていく客に合わせ清掃の仕事をはじめるのだが、髪を結わえるか〜と部屋の電気をつけた途端(誰が寝てようと問答無用で生活音もたてるし電気もつける、因みにスタッフの部屋は窓がないのでみんな監獄と呼んでいた)シングルベッドの上で生のニンジンを両手で握りバリボリと音をたてながら食べる美女が目にはいった。

「え、ニンジン?ニンジン食べてんの?」「おいしいわよ、食べる?」いや、食べれない。

その子とチームで働くときは、なんつうか本当に見ていた限りなんにもしない…ただ威厳を保ってるだけのマネージャーがいたんだけども、そのマネージャーがいなくなった途端ゴソゴソとポケットに手を突っ込んで

「え?いまニンジン食べんの?」
「ベッドメイキングってちょっとハードだわ」彼女はニンジンを食べ始める。

たぶん、ウサギかなにかの霊に取り憑かれてるんだと、わたしは処理した。
もちろん生で野菜が食べれるというのはわかるのだけども、美女が唐突にそれをはじめるのが当時の私には驚きを通り越して爆笑のツボだった。
どこぞのマギー審司が「おっきくなっちゃった」と軽々しくひょいと大きな耳をだしてくるのと同じノリで不意にニンジンを出して食べ始めるもんだから。人間って生きれるものだなとおもった。


他にも、朝は語学学校にかよってるフィリピンの見た目おとなしい、なにかの強烈なオタクかなにかか?みたいなタイプの女の子が、日本ではあまり見ないのだがとてつもなく大きい(人間の顔を覆うくらいある)業務用のトイレットペーパーをある日突然持ち帰ってきたことがある。

「え、これどうしたの?」
「今日学校でもらったの」
「え?なんで?」
「さあ?知らない。でもここにペーパーが無いのは大きな問題じゃない?って」



お、おう…。

そうだよね、としか言えなくなり、思い切りマジックで学校名が書いてあるトイレットペーパーを私たち8人は日々ありがたやー……とは言わなかったが一週間くらい使った。
そのとき、久しぶりに「鼻をかむ」をしたのである。それまでどうしてたのかってただ吸うのみで、割とどうにでもなった。



私たちが住まうそのホテルはあまり治安の良い場所になく、ある時は隣の部屋に警察がはいっていって、逮捕〜!なんてこともあった。
なんの罪だか知らないが、割と当たり前のようにそんな光景を目の当たりにする日々だったから、特別誰かが詳しく話すなんてこともなかった。
もちろん女子部屋であるスタッフルームでも「こわいよねー!」「物騒ー!やだー!」なんて悲鳴は上がらず、「今日チップの代わりにビールをもらったの!みんなで飲も!」なんて言い始めて一本のビール瓶を8人で飲むなんて、そこそこかわいいことをしていた。


しかしある日、とあるおじいちゃんが警察に捕まった。

その日の朝は、おじいちゃんの「ベッド変えたいねん」を叶えるべく、別にチェックアウトしないおじいちゃんの目の前でベッドメイキングをして、「オー、器用だね君は。ビューティホー」なんて拍手をおくられ、英語がそこまで上手くないわたしは「なーに言ってんだろこの人。とりあえずお礼しとこ!」的なノリでサンキューサンキューと言っていたんだが、

夜、捕まった。

さすがに、朝はあんなに穏やかに話していたのに…!(あんまり意味はわからなかったけど)褒めてくれたおじいちゃんが…!と私の中で混乱が生まれ、フロント業務を行っていたスタッフに聞いた。なんであの人警察に捕まったの?。
すると回答がこう。


「なんか捜索願が出されてたみたいで。家出してたんだって」


ジジイよ。


とんだやんちゃボーイ(推定70歳)がのんびりと過ごしていたものだと思う。聞けば、同居人の女の子は「わたし、あの人から牛乳をもらったことがあるわ。がんばりなさいって」とか言っていたり…
おじいちゃんにとっては楽しい冒険だったんだろうなと、思いつつ
大切に大切にパトカーで家族のもとへと送られていくおじいちゃんをわたしはフロントから眺めていた。


他にも日々いろんなことがあった。
ある日壁に耳と携帯をぴっとりと当てていたブラジリアンのスタッフに「なにしてるの?」と話しかけたら

「隣のフリーWi-Fiが、ギリ盗めそうなのよ!!!」と必死の形相で言われたり。(ホテルにもWi-Fiはあったがスタッフは有料で1週間500MBまでというポンコツ具合だった)(友達に電話するとすぐネット切れる)

しかもそれは本当にフリーWi-Fiにつながって、しかし微妙な距離があるのか、使うときは壁に寄り添わないとできなかった。


しっかし、こういうものは、話し始めたら止まらないものだね。

とはいえ思い出す程度のものたちで忘れていく記憶でもあるのだけども、
この時の生活を、時間を、過ごしたということだけはわたしは一生忘れないと思う。
言葉がうまく通じない人たちとぎゅうぎゅうに詰められて、日も当たらない部屋で過ごして、
まず「このレベルまでは生きていけるな、自分」という限界を知ったり、ベッドメイキング実技を心得たり…、どれだけ一人で生きていくのが困難か身を以て経験したりして、

いや〜人生ってたのしいな〜ッカーと改めてテキトーにしみじみ。こういう能天気な態度のせいか、時に「人生なめるな!」と怒られたり、「甘く見てない?」と知らない人に言われたり、色々あるにはあるんだが、でも結局他人の人生に誰もがめちゃくちゃに関与して生死を操っている……なんてことも早々ないわけで、もちろん多くの事柄が重なって運良く生かされてはいるのだけども、生きることが他人の迷惑ってことはないから、出来る限り好きに生きたいなと思うのであった。後悔の余地なく。

以前、とある雑誌の星座占いかなんかの類で「人生ギャンブラー」という良いのか悪いのかいまいちわからないビミョーな称号を自分の星座に当てはめられていたのだけども、人生楽しくなる!に自分の時間をかけてるんだから、言ってしまえばそんなもんかとボケボケ。でも普段はそんな壮大なこと考えず、美味いかけうどん食べてーなー、くらいのことしか行動理由としてないのだけども。
「そっちどう?」と送られてきた友達からの手紙にそろそろ返事を書こうかとおもう。