もういいんでないか

諦めたり進んだり振り向いたりする雑記

さみしいを解体・わからんぜ恋しい


てめえ春の訪れとかそういうことしか書けねーのかよ!ってレベルであったかいとかなんとか、ダラッダラダラッダラ書き続けた約一ヶ月。
地味にウケ狙いしてたら「あれさ、わざとなの?病気なの?」と友人に言われ、すべてが流れ去っていった。サヨナラスプリング。

しかし、こっちもようやっと「春?んなもん飽きたっつーの、夏出せ夏」モードに切り替わってきて。
春眠暁を覚えずもこっちから忘れてやった頃で。

げんき?



とりあえず最近といえば異文化交流をしている。
台湾人の友人が二人でき、インチキチャイ語で時折応戦しては「うまい、うまい!」と言ってもらってる。

そんな彼女らの生活を見てると自分が海外移住を計画していた頃を鮮明に思い出す。
あれやこれやの情景というよりかは寂しさの匂いとか、胸の締め付けられ具合とか、そういう
変な、感覚的な部分が呼び起こされるようで。
時折フッと「海を渡ってまでセンチメンタルな日があったんだよなあ」とか。とかとかね。



やっぱり彼女らも時折「台湾に帰りたくなります、たまに」と言う。

「台湾に帰りたい!」と仕事終わりに泣きべそというよりかは笑いながら叫んで、どこかに飛ばしてる。
それは、痛み、みたいなものだと思うけれど、「ヨイショー!」と私はとなりで意味のわからない相槌をうっている。


けれど、わたしは「海外に生活をしに来ている外国人」を他人ごとのように目の前にして
帰って、それで、どうするんだ、と思う。
なにがどう、満たされるんだろう、と。



たしかに。
海外にいた時、帰りたい日は数えられないほどあった。帰って、何がしたかったか。
案外、はっきり覚えている。

「地元のCDショップにいきたい」
「吉野家の牛丼食べたい」
「お父さんが作る野菜炒めが食べたい」
「愛犬を撫でくりまわしたい」

口に出して言っていたのはこんなことだったと思う。欲望として、うまく言葉にできなかったものもあるけれど
母国にいれば、居さえすれば、すぐ叶うことを願っていた。むしろ、それ以外がわりと国に関係なく叶っていたのかもしれない。
ただ、「母国」というホームで無意識に抱いていた安心感を恋しくおもっていたのかもしれない。



「なんで台湾に帰りたい?」と聞くと、一人の子は「台湾のラーメン、すごく、食べたいです。日本のラーメン、ちょっと私たちにとって、濃いです」と言う。わかる。
好物を、食べたくなる。
今じゃ日本だってすこし出かければ台湾フードを目にするけれど、そうじゃない、母国だからこそ味わえるものがあって、それで育ってきた自分にまず価値があるのだ。

もう一人の子は「家族に会いたい」と言う。その子は、お母さんから頻繁にお菓子やインスタントフードが段ボールに詰められて送られてくる女の子だ。
食生活は日本と台湾を味わいながら、それ故か、どうなのか、どちらかというと彼女の方がホームシックにかかっていて

日本での生活を「夢の中にいるみたい。わたしは毎日、夢の中にいます。夢の中で働いて、本当に面白いです」と彼女は言う。

あ、それいいね!と、わたしは彼女の真似をして「明日も夢、あさっても夢」と仕事終わりに言う。
この表現に何故か母国にいて、母国で働いて、母国にて生活している自分は救われた。何度も。

嫌なことも、苦しいことも、特別言葉にするほどなく、エピソードとして一から十まで語るような愚痴もなく、話し相手を選んでる暇もさして無く(それより優先すべき有益な時間が多いのかもしれない)、「疲れた」と言うのもなんだか気がひけるような毎日で
無理に「大丈夫」と言うのも、なんだか喉が詰まる日。「頑張ろう!」と鼓舞しても、重たいままの腰を感じる日。

何度も「夢の中」という言葉に救われた。
さめたらどうにかなる、なんて先のことまで考えない。いつかはさめる夢、という意味でもない。
「夢」というどこか非現実な表現に詰まったものに、フゥッと肩の荷が下りて、「夢の中ならいいや」と眠れる。



海外にいた時の自分にもパズルのピースかと言わんばかり、その表現はハマった。
どこか、すぐ忘れてしまいそうな毎日で。
景色も匂いも、目に焼き付いたり鼻にこびりついたりせず、いつかはスルスルと手放していく夢だと、思っていた。

実際、思い出せれることは少ない。あんなに楽しくって、あんなに苦しんで、あんなに泣いて、あんなに笑ってたのに!とまでは行かないけれど、少し悔しいくらいには思い出せれない。
「思い出せれない」という感覚があるくらい、覚えてるはずのものが。
(きっとその中の、感覚的な部分を最近は思い出させてもらってる)



不思議だなあと、おもう。
台湾の女の子、ふたり。一緒に過ごして、一緒に働いて、母国が違うだけの女の子。
顔に出るってすごいな、おもしろいな、って言葉以上の「通じる」を感じたり
こんなこと思うかな、なに考えてんのかな、って予想してはお互い選んでみる「言葉」とか。


彼女らと同じ「母国を出て…」ではないけれど、実家を出て

「故郷に帰りたくなる?」と上司に聞かれては「そうでもないです」と答えて。
今さら、いま恋しくなるなら、どこだろう。どんな、ものや、ひとに会いたくなるんだろう。

考える。考えている。




あ、そうだ。

先日二連休をもらった喜びのあまり父親にメールして、久しぶりにきた父親からの言葉。
「楽しい連休になると。良いね」
句読点からはみ出した言葉にちょっと笑った。





ちょっとだけ追記

ハンバートハンバートの「邂逅」を清々しい天気の日に聴く。
ゆっくりとした日本語が心地よくて、景色が広いと歌いたくなるから、よく、海外にいたとき(なにもない田舎だった)歌っていた。公園のビックリするくらいおっきな木の下、ギターは下手くそだけど、よく弾きながら歌った。
その中の詞に「そろそろ、わかってもらえるはずだね。僕らは、同じさ。僕はね、君だよ」という部分がある。切ない歌詞だけれど、心が温められる歌なので「寂しい」という言葉を見るとこの歌を思い出す。