もういいんでないか

諦めたり進んだり振り向いたりする雑記

そら適度が一番です


怒涛のゴールデンウィークを終えて、こんにちは。え?いつの話かって、もう6月なのでした。でんぐり返しをしたら一気に景色が変わったような気分。
そんな、忙殺という言葉に相応しく、海を越え山を越え国境を越え、各地からやってきた人という人の波に観光地にて流され、今日に着したわけなんだけども。

それまでに何度か四連休をいただいたりしてました。しかし、まあ、なんつうか、寝るなり食べるなりしかなく。
久しぶりに熱海を経由し真鯵を片手に実家へと帰ったら父親がいそいそとグラスを出して、「何飲む?ハイボール?ワイン?」と晩酌仲間に手を差し伸べてくれ…。
のほほんとした実家でのちょっとした時間はすこしだけ夢心地だった。


それ以外のことでいえば、四連休中三連休は誰とも喋らず、家に引きこもってなにをするでもなくボケっと、よんどころない事情でもあるかのようにそれはもう、ボケっと、しとったのです。

長い放心状態のままに、なんかもう生きるの止め!みたいなかんじで。
そんでもいっちょまえにユーチューブで吉本新喜劇は見とってね、おもしろかった、やっぱり。
そらもう遺伝子レベルで染みついているツボなので、笑いたくば新喜劇って、完。笑うってすばらしい!


とりあえず、もうあの時の忙しさは夢のように忘れて、ひたすらにのんびりと過ごしています。
身体は怠ける一方で、あの忙しさ再びってもんなら、森へと逃げる思い。

しかし、その「忙しい」が最近お金になって、わたしを肥やしてくれているんだけれども。
頑張った甲斐があった、ってなんとも、お金を見て思わんのね。
ああなんか頑張ってたんだなそれなりに、ああそう。みたいな、振り返るようなもの。

高いも安いもなく本当、時間とか労力とか目に見えぬ諸々がお金になって形として握れてしまうっていうのは、おもしろいもんだって、ちょっと思ったんでした。


しかしこうして約一ヶ月間ブログを放置していたのは、空想にふけるとはなんぞや、と、あるひとつの記事に集中していたからである。
 
記事の内容をかいつまんで話すと、とにかく脳を知的な状態にするには空想が大事だということ。

それは、最近暇をつぶすにはスマートフォン、と言っても過言ではない世の中で、ボケーっとするのも大事なんだぞ!と人知れず警笛を鳴らしている記事だったのでした。

それを読んでからというもの、わたしは空想によって得られるものを意識して、
携帯を手放し、音楽を手放し、時計を手放し、
ほんの数分といえど1日に何度か、定期的に空想にふけるようにしてたんだけどもね、

なんとなくワクワクする時間が増えたんでした。
空想が終わっても気分が晴れやかなまま仕事ができたり、なんとなく、脳は完全に休まっていなかったから処理能力がおちていなかったり、
テキパキ動いている実感を抱きながら物事に打ち込めることが増えた。というのかね。

確かに、空想は大事だと確信。

わたしはツイッターもブログもやっているので、瞬発的になにかを発信することも、考えて考えてポーイと発信することも可能なんですが

ツイッターをやってるとボケーっとする時間が減ります。圧倒的に。
思ってることがすぐに言葉になって流れていく様はメリットがあれど、どこか空想の安売り大バーゲン感が否めず…
ツイッターによる創造力への弊害っつー言葉を以前見かけたんだけども、頷ける。ある程度の距離感ってやっぱりなんに対してもいるもんだと改めておもった。

たいして、ブログを書いてると構想しているうちにふわふわと思考があちらこちらへ漂いまして、
漂った結果この約一ヶ月間の空白。
何書こうか〜何書こうか〜と、していくうちに流れに流れ、さすがに空想に空想を重ね意見がまとまらないのもバカバカしく、そろそろ行動にうつすべし!となんとか苛立ちを呼び起こし、書き始めたのです。

その、ブランクのおかげかなんとも言えん手応えのなさが今ある。
空想しすぎるのもダメなのかもしれない。空想の中でぼんやりと求めていたクオリティをはるかに下回るこの現実の世界感よ!

ブログを書くのも、趣味とはいえ、積み重ね。続けることでなにかしらの特技になる。

そう信じて、ちょいと空想の用量を見つめ直す今日です。