もういいんでないか

諦めたり進んだり振り向いたりする雑記

わたしのツイッターの使い方


最近ツイッターのフォロワーが400になった。あと、もうすぐアカウントが作成から1年経つのもあり、ちょっとあれこれ書いた。



わたしのツイッターアカウント作成



思えば、海外生活のせいで関ジャニ∞の情報にうとくなるなか、情報くれくれツールとして始めたのが、ツイッター。
当時おのれの平均ツイート数といえば10にも満たなかったが、勘とフォロワー数と情報の細やかさと自分の好みで色んなひとたちをフォローした。
わたしのアカウントのフォロー欄、初めの方はそんなアカウントが多いと思う。「基準はさしてないんだけど、なんとなく有名だと認識してるアカウント」そんなイメージの方たちばかり(大変お世話になっております)。
(その後は、メンバーのひとりにフォーカスしているアカウント…いわゆる担当として機能しているかんじの方々をフォローした。これをメンバー全員分フォローできたら見逃しのない生活ができるんじゃないかと、今も色々旅している最中です)

フォローしていて楽しかった点といえば、フォロワーの多いアカウントほど情報に長けていて無駄がなかった。そのとき、わたしが「無駄」と思うのは個人の情報だった。
眠いとかお腹空いたとか、知り合いでもなければ「知らんわい」と思わざるを得ない情報。
当時のわたしは情報が欲しいのであって、アカウント=人間という認識はさしていらなかった。というか不要だ、とおもい避けていた。
あくまでも各アカウントは新聞や雑誌のなかのページとしてフォローしていて、中の編集者が眠かろうがお腹すこうが、「寝ようよ!食べようよ!」そんなかんじ。アカウントにリプライを送ることがまずなかった。完全にROM専、みたいな状態。


しかしツイッターも使っていればドンドン使い方も変わるわけで
日本に帰国したあたりでわたしも関ジャニ∞以外のことを呟くようになった。語学のために「日本語をある程度つかわないようにする」、というルールから抜け出したのも理由(言い訳)のひとつだ。
雑誌の1ページにすぎなかったアカウントからひょっこり編集者がでて、「髪染めた!」、「このお店美味しい(写真付き)」のようなかんじでこれぞまさしく、

知らんわい。

そんなツイートを多々した。
割合でいえば、わたしのヨソからしたらどうでもいい日常ツイートは4割、5割と増える一方だった。
わたしは、フォロワーを多くほしいと思ったことはないが、自分がアカウント=人間という認識を避けていたのもあり「フォローすんのにリスクのあるつまらんアカウントだわ」とおもっていた。(なお、今もつまらないアカウントである)



使用方法が変わっていく流れ


始めた当初、好きなことに特化したタイムライン、が理想的だった。
毎時間、好きなことについてなにかしらの情報や感想が流れていて、現実逃避のような世界。隅から隅まで関ジャニ∞!ピーターパンは大人にならない!ネバーランドよ永遠に!

しかしその一方でいろんな方と知り合うこともあった。一緒にライブに、舞台に出かける友人だってツイッターを通してできた。
どんな人見知りも好きなことを共有すれば、たのしくなる。そんなかんじで、「人と関わる楽しさ」がどんどん「情報くれくれ」よりも勝ってきた。
「好きな物事ばかり」とは違う意味でのネバーランドができつつあった。

アカウントによっては、好きなことふたつ、みっつをいっぺんにひとつのアカウントで愛でていることもある。
わたしの知らない世界も軽やかに広げてくれるその世界観に魅了されることもしばしば。
いまでは「中の人間が専門職についていておもしろいアカウント」や「中の人間が他のグループも応援していて色んな比較や楽しみ方についてツイートしているアカウント」もフォローしていて

四六時中関ジャニ∞、じゃなくなった。

ちょいちょい、セクゾンが〜、とか、嵐が〜とかハロプロが〜とか。話題豊富になってほぼほぼ無法地帯。なんやかんやタイムラインの趣旨を感じるのは「関ジャニ∞関連の番組放送時間」。その時間以外は本当にありとあらゆる話題があっちこっちから流れてくる。

だからか、「自分の今の気分とマッチした人に突撃する」なんてことも増えた。
「おなかすいた〜」に「わたしもおなかすいてた!!!!」とか返す日が普通にあった。
全然知らない話題に「そうなんだね!知らなかったー!」とリプライすることもあった。



なんでフォロワー増えたの?


ああだこうだ過ごしてるとツイッター作成から3カ月・4カ月くらい、フォロー数をフォロワー数が上回った。
番組の感想をまとめた絵を投稿することもあったので、ありがたくもそういう「絵が好き」的なフォローもいくつかリプライ付きでいただいていた。
しかし、そんな中でわたしは「ずっと絵を描いてるようなアカウントではないし…」という思いが芽生えていった。絵を描けなんて言われたことは一度もないが、何故か「絵すきです」と言っていただくうちに、「絵しかツイートしてはならんのでは」なんて馬鹿丸出しのことを考えた。

わたしは過去に、アカウント=情報として中の人間を気にすることを避けていたのに、アカウント=絵を描くアカウント、と思われることに抵抗を持ったのである。

「おいどん、絵以外のつまらんツイートもしまっせ…?」

たぶんそんなツイートも何度かしたと思う。
絵が好き=作者が好きとは限らないことに怯えて、ワガママかよ!ワガママだよ!いつの間にかツイッターをもう一人の自分かなにかみたいに、分身のように使ってた!


よく、就活の時期なんかになると人は「面接が落ちても人格否定とちゃうねんで」と言うと思う。わたしも何回か聞いた。「なんか社風とかタイミングに合わんことがあるんよ」と。


ツイッターもそんなかんじで「フォローやリプライを返されんくても人格否定とちゃうねんで」「なんかタイムラインとかタイミングに合わんことがあるんよ」と思っている。
しかし自分が上記の「人格否定とちゃいまっせ論」を使用するならば自分だって、己のアカウントを己の分身、すべてが投影されている、と思って使ってはならんのでは。
という結論に至った。

分身なんて!!やめてしまえ!!!



感情移入しすぎるのはやめてみた。



・精神的支えをツイッターに求めない
(もうやだ仕事つらい…というツイートをしたとしてもリプライとかには期待しない。あくまでも独り言としてツイートする。辛いことや悩みは個人的に相談できるツール(メールとか)を使用する)

・フォロワー数やファボ数=好意や賛同とは思わない
(承認欲求のある生き物、賛同を得たりすると気がゆるむし、満足にもつながるけどそこに期待も執着もしない。リプライがあっても一意見と処理する)


ついでに絵など…なにかに特化するのもやめた。自分を偽ったり隠すことではなく、すきなことを呟いて、わたしがたのしくないと感じたら辞めよう、そんなかんじで続けた。

感情移入しないように…とは繋がらないが同時期に意識しようと決めたことは他にもある。「ネットを、多数決だから何も言えない場所と思わないこと。多数や少数を区別せずにストレスなく呟く」。(目指すとはすこし違うけど、ネットの可能性は未知数だから多数を作り上げることも可能だとはおもう、というのもあり)




そんなこんなここ1、2ヶ月くらい、より一層自由にしている。
「好きにせえ!」を合言葉に(やたら荒々しい)。

たまに「人気者」と言う方もいる。人によって見えている数や価値観はちがうとは思うが、わたしはフォロワー数がたとえば、フォロー数を上回ることを「人気者」とはおもわない。他人に対しても自分に対しても。上気した通り「好意・賛同と思わない」ようにしている。(フォロワー数の多い人の意見や情報を吟味せず正当と思わないように情報の分別をする)
もちろんなにかお言葉を頂いたら、ありがたく頂戴するけれど、それが増えて数として認識して得することはどこにもない。お金もらってるわけじゃない。好意は好意のまま、ただその人との間に「うれしい」という感情が生まれるだけで。



わたしのツイッターは今のところ
「情報と人情味のある」ツールを保って機能している。アカウント=情報ではなく、アカウント=感情のある人として認識しつつ、ネットで垣間見えた一部のつぶやきから人格を否定する権利がまず自分にはないことや、自分は自分で感情移入しすぎないことを気をつけながら。

もしこの記事を読んでるフォロワーさんがいらっしゃったら、
本当にご遠慮なくお好きな時にリムーブやフォローをしてください。他人の「楽しみ」を邪魔するほどのアカウントではありません。ご自身のタイムラインを楽しんで。

または
「今後とも、タイムラインにお邪魔します。」