もういいんでないか

諦めたり進んだり振り向いたりする雑記

ゴロンと転がってハロー


「今が幸せすぎて、いかんのよ!わたし、だめだ!不幸になりたい!」



突然あったかくなって、すっかりふんわり春がやってきたような気温。
元気ですか。
体調を崩して、あれやこれや選択をして精算をしたり、新しいカードをひいては迷っての1ヶ月、のほほんと過ごしていたら1日24時間なんてすぐに忘れて、明るくなったり暗くなったりする事情だけで1日の境目なんてようそんなこと思いつきましたな!とか考え始めて、いかんこと極まりない。
馬鹿、それくらいにしとけ。



4月といえば「出会いと別れ」で、それに伴って始まる、新生活。

知り合いも周りに構うことなく蚊か、ハエか、大きいような小さいような音を立てて
人知れず引越し準備やらを進めては、行けるもんから目的地に行っとって。

「あんたどこ行くん」「福岡」「ほーん」
「あんたはどこ」「研修で広島行く〜」「ほーん」
「あれどっか行っちゃうの」「上京!東京で待っとるね!」

そんな感じのことばかり。
どっか行くの好きね!って思いながらわたしもどっか行く。
時期的な問題だけども類は友を呼ぶ。
「どっか行くったら行く」と家出少女さながら勝手に決めてスーツケースに適当なものを日々詰めてる。
いや、出かけるも引きこもるも勝手に決めるものだ。

計画性は、みなまで言うなレベルでもうビッシバッシ、ネットだろうとお構いなしで晒してるとは思うけれど、昔っからない。
Tポイントとかの方が多そうだ。
それくらい無い。
絶望的にないから電車の時刻表の見方もスマホが出る前なんかはあんましわからんかった。
これは計画性というか「お前は部位でいうと頭がすこぶる悪い」の典型的な事例である。

「はぁ?結局何時に来んのこれ。のぼりってなに?」
「電光掲示板見たらわかるでしょ、ほらー」
「電光掲示板?は?それてどこ?」

運が良かったものでまわりがものすごく底無しに優しかった。
「世間知らず!」と罵られてけちょんけちょんにされることもあったけど、それってもう「これは奥歯ガタガタ言わされてんのかギャフンと言わされてんのかどっちだろうな」ってかんじのいきおいで、
尚且つ口答えできないくらいごもっともだったので感謝の念をちょびっとだけ地元のツレに送る。ごめん、まだ頭の方治ってないです。

しかし、それでどうにかなってきちゃったから、ツメは甘くなるばかり。
救いようがないなコイツ、と口を閉ざす友人も少なくはなく、大概のことがググレカスでまわるようになった。便利な世の中だわ!




きもち、うたた寝。

そんな時、ふと思い出した1人の友人。

生きる上に無駄なこだわりが無くて、柔軟性に満ちて明るく、朗らかな彼女は万年平和ボケという言葉が似合うキャラクターをしながらも、

「あんたと出会って、毎日たのしい!そんなね、幸せだからいかんのよ!なんかもう、毎日こわいの」

そう言って、わたしここを離れるわ!と出かけて行った。
あっさりとしていて、一週間。
本当にたった七日間でさまざまなものを手配して飛行機に乗って、彼女はわたしの見知らぬ土地へとむかった。
今現在一年間再会はできずにおり、わたしも彼女も「転落願」をして2回ほど住む地を転々とし、今はお互い日本にいるが会えていない。
連絡はとっている。


「転落願」というのは文字通り、しあわせという山登りから雪崩にあって転がり落ちるようなことで、
しあわせすぎると途端次にいやなことが起きるのでは!というメンドーな勘が働き、だったらこっちから「いやなこと」に会いに行ってやる!そういうものだ。

ドラクエでいうと、「このまま進めばボスに会えるけど、ちょっと一回帰ってもっかい一から遺跡まわって、さらにレベルアップしとこうかの」みたいな感じだ。


彼女は文頭のことばを不意に私に向かって伝えて、消えた。

わたしもその数日後、友人がひとり離れたことも忘れるほど「毎日たのしい!」を味わったのだが、強烈にその「転落願」が頭に残っており
今もまだなお、呪いバリの粘着性でこびりついている。
しあわせを感じると頭の中で彼女が言う。
「不幸になりたい!」「毎日こわいの」
彼女のきもちは痛いほどわかる。

わたしも、医療事務をし、カルテを作り、町の片隅で患者さんと日々語らい、おすすめの小説でしっぶい本をいただいて、感想を伝えるのに仕事の休憩中に読んだり、先生に「人体とは」を問い詰めて困らせたり、「このまま問題なくほのぼの生きれるんだろうな」と思えれる生活があって、
それでもまとまっていくお金をぼんやり見るたびに、「わたしはこのお金をいつ何のために使う気なんだろう」という妙な胸騒ぎがして、目的のない貯金にある日、冷めた。

たぶん、恐らく、言い切る人は言う。
「明日死ぬかもしれないのだから」
それもまあその通りだけども、それにしたって今日だけで片付かないこともありますし…ってな感じでわたしはあまりこの言葉を使う勇気はない。
今後も湧く気がしない。
しかし、「目的のない貯金」をして2年も5年も10年先もこのまま普通に生きてると平気で思ってる自分に「あれ?」と思った。
なにその無駄にある自信。

結婚式だってお金かかりますでしょう、親だっていつ倒れるかわからないでしょう。
そう、家系を、己の歩いてきたボンビー道を反面教師にし、いつかのための貯金と思って、毎月何気なく節約して何気なく貯めていたお金。
そいつらが「オイオイ、ボンビーガールここらでいっちょ使っちまおうぜ」と語りかけてるようだった。
結婚なんてまず相手がいないし、親もピンピンしとらっせ、と。

そうして、そうだ!一人暮らし(渡航)しよう!痛い目にあおう!に至るのだが、それはまたいつか詳しく触れなさそうでちゃっかり触れそうなので割愛。


言うまでもなく貧乏の子は貧乏だ。
なかなか血に抗えない。
生まれながらの貧乏センス、狂いなし。
指針がまず貧乏。
親が貯めなければ子も貯めない。
金は使うんだ精神で散財、アホか。
RPGちゃうねん、モンスター倒してガッポリちゃうぞ、コラ、人ん家の壺わってコイン出てこんのじゃアホ、馬のフン出てくんぞ。

そんな逡巡も時にあったが、お得意の「いやまず行動すっか」で、わたしはまたひとつふたつ、計画性を手放すのだった。

話は大きく逸れたのだが、このまま平穏無事なんだろうなと思うと破壊衝動を抱いて動かずにはいられなくなる、「こんな幸せを感じで、痛みという学びはいつ得るつもりなんだろう」そんなことを考える。
友人の気持ちがじゅうぶんにわかるな、とわたしは身に覚えを感じていたのだ。だからこそ脳みそにガンコな油汚…彼女の言葉が刻まれていた。

それらをぼんやり思い出したコタツの中で、つまりわざわざ当たり前をやめるんだよな、とケンタッキーフライドポテトをモグモグ食べていた今日。


もはや、これは「転落癖」。
癖になっている。
自分がルーチンワークを惰性にして、考えることをやめて1日、1日すぎている事にふと気づくと、なんらかの変化を強く求める癖。
もうちょっと痛い目にあって体当たりの人生おくったほうがいいんじゃないか?という不安。そうして、必殺技「わたしの人生ですから!」を発動してズンズン周りを見ずに進む。

大きかったり、小さかったり、その変化はこれまでさまざまだったが
今回も「どっか行こう」から始まり「何か初めてのことやろう」に続いている。

わたしはいつか「やりきったわ。満足。もういいわ、そろそろ腰休めるか」とか言うのだろうか。
たとえば、世界中旅したいなんて、正直口が裂けてもパンツが裂けても言えないくらいインドア派だ。
旅行欲もあり、実際に動くこともあるけれど、一人の時間ないと死ぬんで!とばかりに週に一度は引きこもらないとバランスが取れない。
明確な目標も目的もないからこそ、自分がどこかに落ち着いて日々を生きて、住居も安定して……、そんな未来がひとつも理想的として浮かばないことにすこしだけ「それもそれでめんどいな」と思いながら。
誰かわたしを縛っておいてくれないだろうか。
そうして考えついたのが「ルームシェア」だったんだけども、それはそれでまた実現したら詳しく書こうと思う。



今日も今日とて、スーツケースにあれこれ詰める。
これは持っていかんくてもいいなと思うもんて、もはやなんで家にあるんだろうね。
気持ちいいくらいバコンバコンごみ箱にモノを捨ててスッキリしている。たいしてそれだって量という量はないから、ゴミ袋ひとつも満たされないのだけども
生活するにあたって必ず必要なものってこんな少ないんだな、なんてことを思い知る。
こんなこと、とっくの昔にいろんな人が経験済みで、わたしももしかしたら、何度目かの「はじめて思い知ったわ感」を抱いているのかもしれないけれど
まったくもって情緒もへったくれもない少量の必需品を抱えてこれからも生活していくのだわ。