もういいんでないか

諦めたり進んだり振り向いたりする雑記

わたしのツイッターの使い方


最近ツイッターのフォロワーが400になった。あと、もうすぐアカウントが作成から1年経つのもあり、ちょっとあれこれ書いた。



わたしのツイッターアカウント作成



思えば、海外生活のせいで関ジャニ∞の情報にうとくなるなか、情報くれくれツールとして始めたのが、ツイッター。
当時おのれの平均ツイート数といえば10にも満たなかったが、勘とフォロワー数と情報の細やかさと自分の好みで色んなひとたちをフォローした。
わたしのアカウントのフォロー欄、初めの方はそんなアカウントが多いと思う。「基準はさしてないんだけど、なんとなく有名だと認識してるアカウント」そんなイメージの方たちばかり(大変お世話になっております)。
(その後は、メンバーのひとりにフォーカスしているアカウント…いわゆる担当として機能しているかんじの方々をフォローした。これをメンバー全員分フォローできたら見逃しのない生活ができるんじゃないかと、今も色々旅している最中です)

フォローしていて楽しかった点といえば、フォロワーの多いアカウントほど情報に長けていて無駄がなかった。そのとき、わたしが「無駄」と思うのは個人の情報だった。
眠いとかお腹空いたとか、知り合いでもなければ「知らんわい」と思わざるを得ない情報。
当時のわたしは情報が欲しいのであって、アカウント=人間という認識はさしていらなかった。というか不要だ、とおもい避けていた。
あくまでも各アカウントは新聞や雑誌のなかのページとしてフォローしていて、中の編集者が眠かろうがお腹すこうが、「寝ようよ!食べようよ!」そんなかんじ。アカウントにリプライを送ることがまずなかった。完全にROM専、みたいな状態。


しかしツイッターも使っていればドンドン使い方も変わるわけで
日本に帰国したあたりでわたしも関ジャニ∞以外のことを呟くようになった。語学のために「日本語をある程度つかわないようにする」、というルールから抜け出したのも理由(言い訳)のひとつだ。
雑誌の1ページにすぎなかったアカウントからひょっこり編集者がでて、「髪染めた!」、「このお店美味しい(写真付き)」のようなかんじでこれぞまさしく、

知らんわい。

そんなツイートを多々した。
割合でいえば、わたしのヨソからしたらどうでもいい日常ツイートは4割、5割と増える一方だった。
わたしは、フォロワーを多くほしいと思ったことはないが、自分がアカウント=人間という認識を避けていたのもあり「フォローすんのにリスクのあるつまらんアカウントだわ」とおもっていた。(なお、今もつまらないアカウントである)



使用方法が変わっていく流れ


始めた当初、好きなことに特化したタイムライン、が理想的だった。
毎時間、好きなことについてなにかしらの情報や感想が流れていて、現実逃避のような世界。隅から隅まで関ジャニ∞!ピーターパンは大人にならない!ネバーランドよ永遠に!

しかしその一方でいろんな方と知り合うこともあった。一緒にライブに、舞台に出かける友人だってツイッターを通してできた。
どんな人見知りも好きなことを共有すれば、たのしくなる。そんなかんじで、「人と関わる楽しさ」がどんどん「情報くれくれ」よりも勝ってきた。
「好きな物事ばかり」とは違う意味でのネバーランドができつつあった。

アカウントによっては、好きなことふたつ、みっつをいっぺんにひとつのアカウントで愛でていることもある。
わたしの知らない世界も軽やかに広げてくれるその世界観に魅了されることもしばしば。
いまでは「中の人間が専門職についていておもしろいアカウント」や「中の人間が他のグループも応援していて色んな比較や楽しみ方についてツイートしているアカウント」もフォローしていて

四六時中関ジャニ∞、じゃなくなった。

ちょいちょい、セクゾンが〜、とか、嵐が〜とかハロプロが〜とか。話題豊富になってほぼほぼ無法地帯。なんやかんやタイムラインの趣旨を感じるのは「関ジャニ∞関連の番組放送時間」。その時間以外は本当にありとあらゆる話題があっちこっちから流れてくる。

だからか、「自分の今の気分とマッチした人に突撃する」なんてことも増えた。
「おなかすいた〜」に「わたしもおなかすいてた!!!!」とか返す日が普通にあった。
全然知らない話題に「そうなんだね!知らなかったー!」とリプライすることもあった。



なんでフォロワー増えたの?


ああだこうだ過ごしてるとツイッター作成から3カ月・4カ月くらい、フォロー数をフォロワー数が上回った。
番組の感想をまとめた絵を投稿することもあったので、ありがたくもそういう「絵が好き」的なフォローもいくつかリプライ付きでいただいていた。
しかし、そんな中でわたしは「ずっと絵を描いてるようなアカウントではないし…」という思いが芽生えていった。絵を描けなんて言われたことは一度もないが、何故か「絵すきです」と言っていただくうちに、「絵しかツイートしてはならんのでは」なんて馬鹿丸出しのことを考えた。

わたしは過去に、アカウント=情報として中の人間を気にすることを避けていたのに、アカウント=絵を描くアカウント、と思われることに抵抗を持ったのである。

「おいどん、絵以外のつまらんツイートもしまっせ…?」

たぶんそんなツイートも何度かしたと思う。
絵が好き=作者が好きとは限らないことに怯えて、ワガママかよ!ワガママだよ!いつの間にかツイッターをもう一人の自分かなにかみたいに、分身のように使ってた!


よく、就活の時期なんかになると人は「面接が落ちても人格否定とちゃうねんで」と言うと思う。わたしも何回か聞いた。「なんか社風とかタイミングに合わんことがあるんよ」と。


ツイッターもそんなかんじで「フォローやリプライを返されんくても人格否定とちゃうねんで」「なんかタイムラインとかタイミングに合わんことがあるんよ」と思っている。
しかし自分が上記の「人格否定とちゃいまっせ論」を使用するならば自分だって、己のアカウントを己の分身、すべてが投影されている、と思って使ってはならんのでは。
という結論に至った。

分身なんて!!やめてしまえ!!!



感情移入しすぎるのはやめてみた。



・精神的支えをツイッターに求めない
(もうやだ仕事つらい…というツイートをしたとしてもリプライとかには期待しない。あくまでも独り言としてツイートする。辛いことや悩みは個人的に相談できるツール(メールとか)を使用する)

・フォロワー数やファボ数=好意や賛同とは思わない
(承認欲求のある生き物、賛同を得たりすると気がゆるむし、満足にもつながるけどそこに期待も執着もしない。リプライがあっても一意見と処理する)


ついでに絵など…なにかに特化するのもやめた。自分を偽ったり隠すことではなく、すきなことを呟いて、わたしがたのしくないと感じたら辞めよう、そんなかんじで続けた。

感情移入しないように…とは繋がらないが同時期に意識しようと決めたことは他にもある。「ネットを、多数決だから何も言えない場所と思わないこと。多数や少数を区別せずにストレスなく呟く」。(目指すとはすこし違うけど、ネットの可能性は未知数だから多数を作り上げることも可能だとはおもう、というのもあり)




そんなこんなここ1、2ヶ月くらい、より一層自由にしている。
「好きにせえ!」を合言葉に(やたら荒々しい)。

たまに「人気者」と言う方もいる。人によって見えている数や価値観はちがうとは思うが、わたしはフォロワー数がたとえば、フォロー数を上回ることを「人気者」とはおもわない。他人に対しても自分に対しても。上気した通り「好意・賛同と思わない」ようにしている。(フォロワー数の多い人の意見や情報を吟味せず正当と思わないように情報の分別をする)
もちろんなにかお言葉を頂いたら、ありがたく頂戴するけれど、それが増えて数として認識して得することはどこにもない。お金もらってるわけじゃない。好意は好意のまま、ただその人との間に「うれしい」という感情が生まれるだけで。



わたしのツイッターは今のところ
「情報と人情味のある」ツールを保って機能している。アカウント=情報ではなく、アカウント=感情のある人として認識しつつ、ネットで垣間見えた一部のつぶやきから人格を否定する権利がまず自分にはないことや、自分は自分で感情移入しすぎないことを気をつけながら。

もしこの記事を読んでるフォロワーさんがいらっしゃったら、
本当にご遠慮なくお好きな時にリムーブやフォローをしてください。他人の「楽しみ」を邪魔するほどのアカウントではありません。ご自身のタイムラインを楽しんで。

または
「今後とも、タイムラインにお邪魔します。」

好きになったグループからソロデビューしたメンバーが始めてできた話

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「確実に思ったことを素直に言葉にできる人ではない」と書かれ、その文末には
「歌うために生まれてきたのかもしれない」
としめられていたフラフラ時代の渋谷すばる。
彼がソロデビューした。


多くの記者含めた人間に「満を持して」と表現されるほどに「準備万端」であったと見られるすばるくんの力量は言わずもがな、だとおもう。
なにをどう表現し説明し対消費者を納得させるにしても、彼の才能にもはや言葉はいらず、すべてが「今更」ですべてが「過言ではない」のだ。


ソロツアーはまだまだ行われており、各地を転々としている。
生憎ソロツアーのチケットは持っていないが(本当に悔しいけれど)、頭の中で想像するすばるくんはまさしく、勇ましい姿でステージに立っている。
表現する場が増え、歌う曲が増え、歌える曲だって増え、さらに音楽へと体当たりしていくその様は、今後ジャニーズで、音楽界でどんな木霊を生み出すのか。
見ていてワクワク、いやゾクゾクする。

こんなにもグループ外でのソロデビューが、見ていて洗練されたスリルをかんじるとは思わなかった。
はじめてジャニーズを好きになったのが関ジャニ∞だったのだ。
すべてがはじめてで、なにもかもを関ジャニ∞によって味わい、今回はじめてソロデビューする「一グループの一メンバー」の背中を見て、感慨深かった。
きっと今後もこんなことが多々あるのだろうとおもうと、しあわせだ。

応援することを決めたのはわたしだ。
きっかけがあり、奥行きを感じ、自ら望んで追いかけてきた。
生身の人間の歴史がありとあらゆる手段で記録され調理され、共有されるエンターテインメントのなかで良くも悪くも胸を打つような言動も活動もあった。

おこがましくも追いかけることで人生に関与している気分で、時折距離感は「親戚」程にちかく感じられる。そして、時折ものすごく普通に見えて、五感すべてで認知できないような遠さも感じる。

まだ、わたしは「渋谷すばるがソロデビューを果たし、それを知った自分の高揚感」はひしひしと感じているが「渋谷すばるがソロデビューを果たし、渋谷すばるがどんな感情を抱いて毎日眠りにつくのか」という現実的なことがわからない。
推測しても正解がわかるものではないが、自分の経験上でどんな言葉がつく感情を抱いているのか、考えたいものだ。
わたしが味わったことのない感情かもしれない。それこそ言葉では伝えられるものではないかもしれない。
けれど、どこか、今あえて「何を考えながら眠りにつきますか?」という質問を彼におくり、答えが聞けたらなあなんて。

馬鹿な願いを抱きつつ、いつの日か「ソロデビューをしたあの時は〜…」と、
過去として語られることも必ずないとは言えないのだ。
わたしはそれまで待つ。その日を楽しみに待つ。昨日や今日、はたまた明日。すばるくんにとって楽しかったり、嬉しかったり、幸せだったりしたことを、「そうだったんだなぁ」と知れる日まで
彼のソロ活動を応援したい。


改めて、渋谷すばるさん
ソロデビューおめでとう!



この曲を思い出しました。
スーパーヒーローです、本当に。

ほんの少し、歌詞の一部です。
「あの子の心にはライオンが住んでいて、その魂には情熱を秘めている。あいつの内側にも、ケモノが隠れていてうまくは飼い慣らせない。もう二人は今までに何度も何度も打ちのめされて、酷い目にもあってきた。あのひとたちはいつだって辛さをパワーに変えるんだよ。いつも、痛みをバネにしてるんだ」



飛び方を覚えたスーパーヒーローに行けれない場所なんて、不可能なんて、本当にないのかもしれない。



村上さんの特番、横山さんの舞台、丸山さんのMCレギュラー、大倉くんのドラマ。
すばるくんに限らず見逃せない活動が続く関ジャニ∞。
焦らず急がず、じっくりと味わって噛み締めて、楽しみたいなって思います。

ちっぽけを見つめて星の大きさを知る



尊敬する女性がいる。
ものすごく人生の扱い方が私的タイプで、生き方・一挙一動・価値観、とにかくその人の性格を表すすべてが自分には輝いて見える、そんな女性である。


その人はあまり人と比べない。
一緒に過ごしていて、よく聞く言葉は「まあ、そう思う人もいるよね」だった。
なんども何度もその言葉に救われた。
傷ついたとき「職場で出しゃばりって言われてしまった」と言えば
私がでしゃばりか、でしゃばりでないかは決め付けず「まあ、そう思う人もいるよね」と。
最初はその言葉にすら傷ついた。
絶対的に人の味方にもならない人だったからだ。
これは本当に勝手なものだが、さみしい思いはあった。

けれど、どんどんどんどんその言葉が安心する魔法の呪文のように思えた。
今ではわたしも自分に言い聞かせるように使っている。
「そう思う人もいるよね」と口にすれば、世の中で渦巻くさまざまな意見や思想が「とりあえず」自分の中で認められ、そして同意するか否定するか、選択の余地を十分に自分に与えることができる。
生き急ぐことなく、
まだまだ生きる上で貧弱なわたしにとっては大変気力を吸い取られる「賛否両論」と距離がとれた。

もちろん、この一言を好まない人もいるだろう。それが「そう思う人もいるよね」から学んだことである。
なにかを発信することで必ず賛否両論はある。
人間の100パーセントの支持率を得るようなことは不可能だと、とてつもなく遥か昔から実証され続け、今も戦争と議論が行われている。

この記事も特別「イイネ」が欲しいわけではない。マイノリティーやマジョリティーにあまり関与したくなければ、自分がどちらかの部類であることも分析したくない。


本題に入ると、
その女性が「自分はあまり凄くない」と言った。

人間が何人かいれば彼女・彼は「自信がある」「自己過小評価」「ポジティブ」「ナルシスト」などなど、個性を表す言葉が当たり前のように使われる。
自分だって自分に対して使う。
自己分析をしっかり行うことがあらゆる場面で要されるなか、自分を見つめ直すことも少なくはない。

そんな「自己分析的なハナシ」のなかで彼女は「自分はあまり凄くない、そう思ってないと、疲れる」と言った。
うんざりといった表情で、今にも白眼をむいてしまいそうな、何かに対する疲労感を漂わせていた。
「まわりみんながすごい、と思ってるわけでもないけど、誰かをリスペクトするような楽しみはずっと味わっていたいんだよなー」。

それは、わたしなりに噛み砕けば
誰かを尊敬して学びたい、誰かに憧れて自分を磨いていきたい、さらに上へ上へと、のびしろを自ら自分にきちんと与える。
そんな言葉である。

彼女と喧嘩することもある。
限りなく無言に近い「お互い、飲み込むのに時間がかかりますのでちょっとタンマ」的な喧嘩だが、
この言葉を聞き、会話をしていて、やっぱりこの人は憧れだと改めておもった。



誰かに対して使いたくはないけれど、自分に対しては言い聞かせていたい「身の程をわきまえること」。
「すごいこと」を「羨ましい!」「尊敬する」「憧れる」
そうやって、恨むことなく、歪むことなく、自分の欠点を見つめた先で感心をもつこと。


すこし、大きなものや、多くのこと、現実的ではない厳しいことを己に求めて、ひとりでごちゃごちゃと追い詰め、考えてしまう自分にとって
リラックスするような思いだったので、ここにひょっこりと。


小さなことを積み重ねていこうとおもう。
こう思う人間が世の中ひとりくらいいても、いいだろう。
そうやって、のんびりと貪欲に。

ひなやすトーーク 2011年〜2012年まとめ

2011年〜2012年は、それまでゲストが複数メンバーだったが村上くんとの一対一トークへと変わった関ジャニ通信。
短い間ではあったが安田くんも何度か一対一ゲストできていた。
ということで、すこし過去を振り返っていたここ最近。当時は何気なくボケっと聞いていたが、改めて聞くと「なんだこれ?」と思うことも多く
ツッコミどころ、笑いどころ満載だったヒナヤストーークをまとめてみた。
ふたり独特の「淡々と抑揚のないポンポン飛んでく言葉のキャッチボール」や「ふたりしてポンコツ迷宮」や「ボケとツッコミかわりばんこ」などなど、空気感を改めて感じつつ…!
 

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※ヌヌチちゃんは誤字です ◯ヌヌちゃん


※辛いわや は誤字です。◯辛いわ

 

 

オマケのヒナクラトーーク

高級品を身につけるコト


気づかぬうちに下書き保存したままだったので、今更すぎること。ダラダラと。



関ジャニ∞の仕分け「高認回」の感想で
ふたりが合格したことより、意外にもファンの中で長々と話題になったのは無防備に撮影された私服だった。
私服を語られるなんて、アイドルという職業に就ている人として理想的な話題。
ありとあらゆる「特定班」がワタワタとあれは何円だあのブランドはどうだこうだ、さながらその手のプロかなんかか?と思うスピードで見つけ出し…
本当に、ツイッターは仕事が早いとびっくりした。

そんな人様の検索結果をボケっと眺めながら、自分も仕事がんばろ〜稼ごう〜

などなどゆるく考えていたら本日仕事で「高い物を身につけるということ」とは、に触れた。
すげいぜ、タイムリー。

正直、やはり仕事中のちょっとした堅苦しい話だったので内心は「はやくおわれ」とたまたまあった腹痛を堪えながら聞いていたのだが(理不尽な苛立ち)
とても興味深く、イチ価値観とはいえ個人的には頷ける内容だったのですこしまとめた。


まず、高価なものを「見られる場で身につけるコト」は費用対効果がある。

「良いものを身につけると自分が高まる」のはボンビー(私)の切なくも夢のある発想だが、
「身につけるもので収入が知れると位がわかる。位がわかると人は憧れか妬みに分かれる」というわかりやすい分別効果が生まれ、ふむふむ大倉くん…横山さん…と考えてはシビれるのだ。
そうすることでまずは自分へ向けられる感情を自らパックリ分けさせ、収入に合った服で存分にオシャレなりなんなりをたのしみ、ファッションが習慣として受け取られた日に「オシャレですね」という敏感な人間を獲得する。
◯◯さんイコールでオシャレに結びつくと、わかりやすく吸収力のある看板のようなものができる。
そして挙げ句の果てには「いつも」という言葉のおかげで、その人自体が「売り上げ促進」となる。マネキンのように。


さらに、オイシイのは服は「燃費の良い車」だということ、らしい。
横山さんの服の「物持ちの良さ」が物語っていたと思う。壊れやすいことも大概なく、明らかな使用過程が見えない服はたしかに燃費のいい車に乗るようなかんじかもしれない。


なるほどなあ、と思いつつ
収入に合った「お金のかけどころ」を頭の中でグールグールさせた。
ああいう私服効果が少なからずモデル起用、普段のスタイリングにつながっているんだなあ、とか改めてジワジワ。
(モデルを選ぶ際いつもああだこうだ言っている編集部を思い返しながら)


同じ時代を生きるアーティスト


FOO FIGHTERSのアルバム「ソニックハイウェイズ」はジャケットに8と書かれている。
それが絶妙な角度でインフィニティを思わせるのだが、関ジャニ∞のファンでもあるわたしはついつい勝手にご縁を感じてしまった。
FOO FIGHTERS(以下FF)にとっても、渾身の8曲が詰まったアルバム。
湧き上がるものがあった。

このブログを見に来ている人は殆どが関ジャニ∞ファンだと思う。
FFを知っているかどうか。知らないのが7割かもしれない。6割かもしれない。
ということでざっくりと紹介すると「人生に一度は触れておきたい、元ニルヴァーナのデイブを中心とした時代を作り上げてきたバンド」と紹介。
いや、作り上げている最中でもある。
多くの人がその背中に惚れて、その軌跡を追いかけているのだ。

FFのアルバムといえば名盤と呼ばれるものがあれど「ハズレがない」ことで有名だ。
当たり前のように聞こえて全アーティストに通じるかどうか、難しいところだと思う。
どのアルバムからFFを聴き始めても、一作目から確立されている音楽性が裏切らない。
メロディアスで聴きやすく、なによりアメリカンで底抜けに明るい。生命力の塊みたいなバンドだ。

「ソニックハイウェイズ」は、アメリカ8都市で、それぞれのご当地を代表するゲスト・アーティストを迎えながらレコーディングされている。
まさに、FFにしかできないアルバムだ。
FFだからこそできたことがこれでもかと詰まっていて、「8曲だけ〜?」という物足りなさはすぐに吹き飛んでしまう。
そんな粒揃いの8曲は愛情をじっくりと染み込ませて、音楽アルバムとしての完成度をこれでもかと、ありとあらゆる面から上げている。

間違いなくかっこよく、絶対に裏切らない。


さらに高く、さらに上へと目指すことに必要とされたようなFFとの「接点」を作り出すゲスト・アーティストとの絡み方は「伝説の過程」を見てしまったようで、ゾクゾクした。
次作にどんな化け物を仕掛けてくるかわからない。傑作といえる今作を、必ず越えてくる。限りなく確信にちかいものが溢れている。

すみっこの一ファンではあるが、FFが望み夢見ている景色は、自分の想像の限界を越えた先にあるようで。
今作で久しぶりにアーティストに対して「こんなアーティストが世界で息をしているなんて、こわいな」とおもった。
突き刺さる感動だ。
これを味わえることが、紛れもない幸せだ。



まさに生きる伝説として、数々の功績を残していくFF。
そんなFF、デイブがこのアルバムのことを「アメリカ音楽史へのラブレター」と言い表した。
これは、もう避けきれない「必聴」なのだ。


さてエイトごとでは
渋谷すばるがオランダ、第44回ロッテルダム国際映画祭にて味園ユニバースの上映後、ライブを敢行した。
しっかりと、敢行(思い切って行うという意味)、と言いたい。

役700人の観客が総立ち、と新聞記事にて書かれていたが「すごいなあ」と思考を手放すように圧倒される他なかった。

「自分が自分を見失わず、自分らしく生きることで、誰かの糧になってくれるなら、俺はそういう生き方をしたい。そういう生き方が出来る場所を、俺にくれたんはジャニーズ事務所やから。」

そしてふと、2012年、1万5000字インタビューにて語られたこの言葉を思い出した。

今は関ジャニ∞(アイドル)であることが誇りと、感謝していると素直すぎる言葉が並んだ記事はすこし当時の私には受け止めきれない「重み」があったのだが

映画祭にて関ジャニ∞を背負い堂々と歌って魅せ、日本の新聞記事に大きく取り上げられるすばるくんの行く道を思いながら「こういうことか」と、はじめて飲み込めた。

きっときっと、まだまだわたしには思い描くことができない景色をすばるくんも、関ジャニ∞も、見せてくれるのだろう。

それが楽しくて、嬉しくて、

今日、あえてFFのアルバム感想と合わせて書きました。

わたしの糧です。



ソニック・ハイウェイズ

ソニック・ハイウェイズ

被写体の関ジャニ∞・大倉くん

ファンがなにかを語る上では、欲目という言葉から逃げられない。
なにを言ったとしても、話したとしても「ファンだから」という物事への偏りがにじみ出てしまう。
そういうものは
「ファン」という先入観が読み手に与えてしまう「偏見」なのか
それとも「事実」、否が応でもファンのアウトプット行為には欲目という味付けがされてしまっているのか。


何度か、編集という仕事に関わることで「関ジャニ∞を取材できたら、特集がくめたら」などと末端・無力の人間ながら
あからさまにキラキラした夢を味気ないデスクに広げた。
ああしたいこうしたいこんなテーマでこんな取材でこんな撮影をして、いやいっそ文なんて200字程度に収めてしまって写真をできるだけ多く…

妄想は止まらない。
この目で見たい関ジャニ∞がたくさんある。
もちろん、自分にはその他の趣味があるのでやってみたい特集、書いてみたい記事、撮ってもらいたいモデルなどなど、いっぱいあるのだが。(そして九割は叶わない現実である)

もし権力のある編集者になれたらなにしますか?と聞かれたら、今は関ジャニ∞でなにかしたいっす!と言うかもしれない。
ファンはいつでも強欲だ。



今日、過去の雑誌と最近の雑誌を見比べていた。
被写体としての関ジャニ∞をだ。
本当にたくさんたくさんカメラの前に立ち、さまざまな表情を見せ、色々な服を着ている。当たり前のことかもしれないが改めて書きたいほど「歴史がある」。
撮影テーマもその時々で濃いものもあればほぼほぼフリースタイルといった投げやりな企画もあり、
「アイドル(ブランド)」にプレッシャーをかけている雑誌だってあった。

そんな中でずば抜けて目を引く人がいた。
大倉さんだ。
彼は「いつもユーモアがあってキャラが立っていてテレビでもお馴染みの関ジャニ∞の◯◯くん」という表情をしない。
いわゆるパブリックイメージを脱ぎ捨てたスタイルがあり、写真に対してのみの独特な雰囲気がある。
個人的な感覚とも言えど、「撮りたくなる」。
そんな雰囲気だ。

わたしは、カメラマンでもなければ、編集者としてもまだまだペーペーだ。それは現実であり肩書きとしては説得力なんて何一つ持ち合わせていないだろう。
しかしこの個人的な感覚と大倉忠義から溢れでている、並々ならぬ「モデルオーラ」をたった今思い立って!という勢いで書き記しておきたかった。


世の中、出る杭は打たれる。
おそらく行為的には大倉さんという杭を勝手に出しているのかもしれないが…(きっと、大倉さん以外はどうなんだ?という意見を持たれるかもしれないが、あまりにも使い古された言葉を使うのであれば「その人にはその人の良さがある」のであり、これはあくまでも被写体として見てみる関ジャニ∞、がテーマである)

大倉さんの魅力に迫るような思いで
今度は大倉さんにフォーカスし、最近のものから過去のものへと、素敵なモデルの軌跡をたどった。

目に留まったのは2007年の雑誌・POTATO。
7人それぞれソロショットがあり、服装は季節感のないエスニック系。
全員がアイドルとしてうつっていた。
あったとしても大きな笑みはなく、微笑み程度。目に力をいれて、凛々しい丸山くんあり、柔和な表情を浮かべる村上くんあり。
そんなファンからしたらたまらない「普段とは違う装いの関ジャニ∞」。
しかし、どうも服装が浮いた。似合わないという違和感が先行している。
着慣れていない、きっとおそらくこのような服装はあまりプライベートではしませんよね?という印象が際立つ。
そんななかでも、アイドル誌ではなく、ファッション誌のように「衣装」を纏い一人だけどこか違う雰囲気を漂わせる男性がいた。
それが大倉さんだった。
おそらくまだ22歳の頃の、髪の長い大倉さん。
白背景に馴染む脱色した髪、毛先は軽やかに跳ねながらもどこか「アンニュイ」でもあるスタイル、眉間にすこしだけしわを寄せて強い目ヂカラを魅せつつ、リラックスしたようにわずかに開いている口元。
何故か惹かれた。
「アイドル」よりも「モデル」らしく、程よく着せられた「マネキン」のような衣装の馴染み。

写真として見る大倉さんはパレットのような印象をうけた。
パレットにどんどんああしたいこうしたい、というスタイリストやカメラマンの欲望が加わりながらも柔軟に色が混ざり、発色良くカメラにうつっている、そんな印象だ。
他のメンバーはどうかと言うと、もともとに備わっているキャラクターのが勝り、パレットというよりも、彼ら自身が絵の具のようだった。化学反応が楽しめれるような、これもまた素敵な被写体。(もともとのキャラクターによって服装自体にある印象が変わる、というポジティブなマジックがおこりやすい感じだ)。
どちらも好きでどちらも見ていて楽しい。それは変わらない。改めて全員顔立ちが整っている。
すごい、…すごい。唾を大きく飲み込みながら頷く。これは欲目です、とは言わない、自ら言うわけがない。


しかし、
大倉さんのその「モデルオーラ」とはなんだ。

その恵まれたスタイルの良さか。
キリッとしながらも好青年さを失わない程よく「純朴」な顔立ちか。
眠たげで涼やかな目元か。
厚く弾力と色気のある唇か。

あれやこれやと考えるも、しっくりとはこない。
天性ではないか?というあやふやなものに頼りそうになる。
確かな才能ながらも言い当てることができない。ふわふわとしていて的を射ることもできない、掴めない大倉さんの漂わせるオーラ。

バラエティーなど、テレビで見る彼はわかりやすいキャラクターのイメージがある。
けらけらと笑っていて、すこし毒舌で、誠実そうな立ち振る舞いをしながらも、悪戯な笑顔も憎めないネ。そんなイメージ。
写真となると、すべてが通用しなくなる。
撮影テーマに沿った表情を魅せて
これはすこしやらしくてダメな見方かもしれないが、編集者も書きやすそうな、本人による魅せ方のまとまり、がある。シンプル且つ、想像を膨らませてくれる。

思えば、彼が行う俳優業はキャラクターがさまざまだ。全員がそうとも言えたが、ずば抜けて濃ゆいものもやっている。
やはり、大倉さんは「パレット」のようだ。
クリエイターにとって彼はとても大きくて自由に扱うことができる、そしてそれを受け止めてくれるパレットで、ついつい色付けたくなる。

そんな、 対芸術における大倉忠義の「素直さ」を感じた。


今は全員でのメンズノンノの連載があり、渋谷さんは映画の公開に向けて各誌に取り上げられ、ますますそれぞれが被写体としてメキメキと成長し、魅せ(興奮させ)その世界へと引きずり込んでくれそうな、関ジャニ∞。
大倉さん以外にも注目して、その「芸術」の味わい深さを咀嚼していきたい。

今度は大倉さんのような「パレット」ではなく、絵の具の化学反応について書けたら…。






素敵だなあ!芸能って、たのしいなあ!

(出る杭は出過ぎたら芸術)