もういいんでないか

諦めたり進んだり振り向いたりする雑記

ちっぽけを見つめて星の大きさを知る



尊敬する女性がいる。
ものすごく人生の扱い方が私的タイプで、生き方・一挙一動・価値観、とにかくその人の性格を表すすべてが自分には輝いて見える、そんな女性である。


その人はあまり人と比べない。
一緒に過ごしていて、よく聞く言葉は「まあ、そう思う人もいるよね」だった。
なんども何度もその言葉に救われた。
傷ついたとき「職場で出しゃばりって言われてしまった」と言えば
私がでしゃばりか、でしゃばりでないかは決め付けず「まあ、そう思う人もいるよね」と。
最初はその言葉にすら傷ついた。
絶対的に人の味方にもならない人だったからだ。
これは本当に勝手なものだが、さみしい思いはあった。

けれど、どんどんどんどんその言葉が安心する魔法の呪文のように思えた。
今ではわたしも自分に言い聞かせるように使っている。
「そう思う人もいるよね」と口にすれば、世の中で渦巻くさまざまな意見や思想が「とりあえず」自分の中で認められ、そして同意するか否定するか、選択の余地を十分に自分に与えることができる。
生き急ぐことなく、
まだまだ生きる上で貧弱なわたしにとっては大変気力を吸い取られる「賛否両論」と距離がとれた。

もちろん、この一言を好まない人もいるだろう。それが「そう思う人もいるよね」から学んだことである。
なにかを発信することで必ず賛否両論はある。
人間の100パーセントの支持率を得るようなことは不可能だと、とてつもなく遥か昔から実証され続け、今も戦争と議論が行われている。

この記事も特別「イイネ」が欲しいわけではない。マイノリティーやマジョリティーにあまり関与したくなければ、自分がどちらかの部類であることも分析したくない。


本題に入ると、
その女性が「自分はあまり凄くない」と言った。

人間が何人かいれば彼女・彼は「自信がある」「自己過小評価」「ポジティブ」「ナルシスト」などなど、個性を表す言葉が当たり前のように使われる。
自分だって自分に対して使う。
自己分析をしっかり行うことがあらゆる場面で要されるなか、自分を見つめ直すことも少なくはない。

そんな「自己分析的なハナシ」のなかで彼女は「自分はあまり凄くない、そう思ってないと、疲れる」と言った。
うんざりといった表情で、今にも白眼をむいてしまいそうな、何かに対する疲労感を漂わせていた。
「まわりみんながすごい、と思ってるわけでもないけど、誰かをリスペクトするような楽しみはずっと味わっていたいんだよなー」。

それは、わたしなりに噛み砕けば
誰かを尊敬して学びたい、誰かに憧れて自分を磨いていきたい、さらに上へ上へと、のびしろを自ら自分にきちんと与える。
そんな言葉である。

彼女と喧嘩することもある。
限りなく無言に近い「お互い、飲み込むのに時間がかかりますのでちょっとタンマ」的な喧嘩だが、
この言葉を聞き、会話をしていて、やっぱりこの人は憧れだと改めておもった。



誰かに対して使いたくはないけれど、自分に対しては言い聞かせていたい「身の程をわきまえること」。
「すごいこと」を「羨ましい!」「尊敬する」「憧れる」
そうやって、恨むことなく、歪むことなく、自分の欠点を見つめた先で感心をもつこと。


すこし、大きなものや、多くのこと、現実的ではない厳しいことを己に求めて、ひとりでごちゃごちゃと追い詰め、考えてしまう自分にとって
リラックスするような思いだったので、ここにひょっこりと。


小さなことを積み重ねていこうとおもう。
こう思う人間が世の中ひとりくらいいても、いいだろう。
そうやって、のんびりと貪欲に。