もういいんでないか

諦めたり進んだり振り向いたりする雑記

ジュリエット通り 感想 私が見えない誰かと見える誰か


ジュリエット通り感想


前日から大阪観光で泊まっており、特に現実味も実感もないまま翌日27(木)、ジュリエット通りを観劇。
観終わったあとはしばらく余韻に浸っていたせいか
流れるように梅田駅まで帰ったその過程は、もう記憶になかった。


人は心理学的に大きな声やはっきりとした号令に従ってしまうと言われている。
舞台や映画、ドラマなどを見ない限りその集団を導く声の恐ろしさは伝わらない、おそらく。
異常さというか。
世の中にはいろいろな事例があるものの、想像するよりもはるかに目の当たりにするのが味わいやすい
東京ドーム○個分と言われた施設に足を運ぶ、のが一番の「理解」というのと同じような。

ゾッとするなと思うのは太一が大きな声を出すシーンである。
どのシーンも納得や共感に導くような強引さと、切実さ、その怒号のような大声を浴びせられる人間が弱っていく姿があり
太一の不器用さや、成熟しきらない弱さ、暴力的な若さを感じた。
「わかったよ」の連続のなかで弱っていくシーンなんかは、風船がしぼんでいくような太一の己の愚かさを味わっている雰囲気が凄まじかった。


基本的に幻想的でどこか浮世離れしていた舞台に現実味を与え、常に観客の「観る」ことを惹きつけていたのは田崎。
流石、という言葉も恐れ多くて出ないほどに圧巻。あえてこの言葉を使いたい、圧巻の演技だったのだ。
この舞台ですこし入り込めないのはスイレンの煮え切らない演技である。とても難しいことは、ヒシヒシと伝わってくるのだが、
「スイレンの儚さが伝わってよいのでは」としか言いようがない程に、説得力に欠け
岩松さんは舞台が始まる前「大政さんには、これまで演じてきた同世代の役よりも少し背伸びをして、安田さんや風間さんを翻弄する魅力的な大人の女に挑戦してもらえたらな、と期待しています。」と、コメントしていた割には、が率直な感想だった。恐らく大千秋楽を終えたあとは肩の荷が下りるような気持ちだったのではと、
勝手ながら一番、大政さんに「お疲れ様です」と言いたい気持ちが大きい。

舞台の解釈と言えるほどの解釈は特にない。ナゾナゾみたいな舞台ではあったが、感じたことは
あまりにありきたりで身近な「可哀想」をあまりに遠くのモノへとし魅せる。
他人事のようでいてそれぞれが抱える悩みはアイデンティティーそのもの。身近にそんな悩みを深刻に抱えているものがいれば、思春期かと罵られそうなコトを全員、ほとんどオトナの人間がその曖昧さ、実態の不明瞭さを不安がる狂気的な絵だった。
その舞台は観客に、距離でちっぽけに見せた「可哀想」の希望を感じさせるものでもあり、「可哀想」の絶望を見せるものでもあった。

解釈という言葉に適切なのかはわからないが、実態・アイデンティティー、何がホンモノなのかをテーマにしながら、因果と繰り返しを描いていたように思える、そんな感覚。
きっと、誰が死のうと、だれが生きようと、全く同じ出来事は繰り返し繰り返し繰り返し起きて、わたしが観劇した舞台・ジュリエット通りはその大きな歯車の一部でしかなかったのでは。
そして、太一とスイレンとスズはジュリエット通りに生きる、地縛霊みたいだったのだ。



一応安田さんのファンとして観たので安田さんに関する感想を、とも思うのだが舞台が始まって出てくるのは太一くんという全く知らないニンゲン。
カーテンコールのとき、ああ安田さんだなぁ、と何故かホッと思うくらい。
間近で表情を声を仕草を見ながら浴びながら堪能しながらも、太一くんという人間の皮をかぶっているように、まったくファンらしくヒャーとかキャーとかウヒェーとか心でも叫んでられなかった。
その、安田さんの功績を、上記はわたしの感覚的なもので何も真っ当なコトが言えてないのだが、本当に素敵だなと思った。


舞台中疲れているように見える、という噂を何度か耳に挟んだが、安田さんのなかで綺麗に昇華できる思い出となっていますよう。

お疲れ様でした。