もういいんでないか

諦めたり進んだり振り向いたりする雑記

無理からは遠ざかってみる

この約一年の旅、価値観という世界にどっぷりだった気がする

「なにか」に対して「思考」するとき多くの人がおそらく自分の「常識」を「基準」に物事に向き合う。
例えば、わたしはサーモンのことが大好き
そこに誰かが私は嫌いだと言ってきても、完全には理解できない。むしろ、なぜ?ってなる
だけど、わたしがもしサーモンのことがきらいだったら恐らく限りなく寄り添って理解ができる。

(女ってとくにそういう「共有感」?「意思疎通感」すごく好きな気がする。
よく恋愛指南!みたいなので、女の相談事には共感だけしとけ。なはんて言われてるけど(それが黙ってできていたら女も男も苦労しないよね…))


海を渡り移民大国にて生活し、毎日なんの宗教?っていう団体を公園で眺め、おいおいなんの騒ぎ?というデモを見て、拡声器片手にニュースで報道されるような写真を持ちなにかしらを訴える女性なんかも見て。

遠かったものが近づいて現実味を帯びた
「みんなの生活」が他人事じゃなくなって
恐らくまだわたしは「平和ボケ」という柵の中で、外界をすきな時間に好きなだけ眺められる立場だし年齢だとも思うのだけど
いろんな「常識」いろんな「ものさし」が容赦無く自分にぶつかってきたりもしたなかで、とても「様々」であることを痛感する旅だったと今思う。
時事問題として取り扱ってきたものが、ある日突然友達の母国で起こってる出来事になってるのだから(セクハラ発言のことや、某野々村さんのことは日本の恥だよねとその時はよく言われたけどさ〜)

世界が平和になるなんて、到底むりだ。
レストランで注文商品がばらばらなだけでキッチンは戦場だし、彼氏と彼女は映画館前でなにを観ようかって喧嘩する、ジャニヲタ同士は毎日タレントまでどこまで踏み込むかで揉めてる気がする、みんな常識も基準も違うから仕方ないけど。
「世界」を見たことはないけど、調和?そんなの無理だー!と思った

日本で生活してる時も。わかってはいた。
人の価値観ってマジで混ざり合わねーし、腹立つこともだいたいそれらが原因だし
仲良かった友達のふとした時の金遣いや仕事の仕方にびっくりしたことも、ある。
それ、海渡っても変わらなかった。なにこれってくらい
なんなら「土地」も違うし、「文化」も違う人間がそこにいても、わたしという個人は「身ひとつ動いてる」だけで、なんら価値も才能も思考も変わらねーってことに気づかされた。
場所が違ったら自分の価値が変わるなんて甘ったれた話だけどね。

きっとこの先も通じない言語以上の苦しみを価値観という見た目こそチープな世界で味わうだろうし
わたしがありとあらゆる武器や防具で身を固めて戦い続ける、言動という戦場での出来事は今後も穏やかなものだけではないのだろうなーと、ぼんやり。
もわわんとそんなことを考える旅だった。

だけどわたしは上記した「むしろ、なぜ?ってなる」ことを恐れずに、聞いていきたい
もっともっと広がるべき価値観が、まだまだ調和には程遠いけどやっぱりそれぞれにはあるとおもう。ヨユーないよねあの人、って将来影で後輩に言われるなら、今、なんでだよー!って叫んでものすごい豪速球かまされて頭打っても、いいんだ。話すってすっげーな、とも確信した旅だった

そのときは武器も防具も捨てていたい
医療関係でバイトしていたとき、院長先生に患者さんから話を聞くときは必ず手を前で組みなさいってよく言われたけど、「武器、持ってないからね」って意味なんだって。
今、武器または防具を離せないで人と会話する人はどれくらい居るのだろう。それらを強要するしかない社会ってどれくらいあるんだろうね。